【姓名】 桟潜(さんせん) 【あざな】 彦皇(げんこう)
【原籍】 任城郡(じんじょうぐん)
【生没】 ?~?年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・高堂隆伝(こうどうりゅうでん)』に付された「桟潜伝」あり。
曹丕(そうひ)や曹叡(そうえい)に諫言するも、いまひとつ容れられず
父母ともに不詳。
桟潜は曹操(そうそう)の時代(220年以前)に県令(けんれい)を歴任し、鄴城(ぎょうじょう)の督(とく)を務めた。
そのころ曹丕は王太子(217~220年)だったが、狩猟にふけり、朝から出かけて夜まで帰ってこないこともあった。
桟潜が諫めたところ、曹丕は不機嫌ながら、その後はいくらか遊楽を控えるようになったという。
222年、曹丕が貴嬪(きひん)の郭氏(かくし)を皇后に立てようとしたとき、桟潜は上奏文を奉り、彼女の家柄などを理由に反対する。
だが、曹丕は聞き入れようとしなかった。
226年、曹叡が帝位を継ぐと、種々の役務が盛んに課せられる一方、帝族は疎まれて排斥された。
桟潜は上奏文を奉り、現状を説いて諫める。
後に桟潜は燕(えん)の中尉(ちゅうい)となったが、病を理由に就任せず、そのうち死去(時期は不明)した。
管理人「かぶらがわ」より
曹丕の狩猟はともかく、曹叡の浪費は病的なものすら感じさせます。あらゆる3代目が抱えやすい問題とも言えましょう。
魏の場合、蜀(しょく)や呉(ご)とは国力が違いすぎましたから、どうしてもこういう方向に行きがちだったのでしょうね……。
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