曹氏(そうし)E ※曹操(そうそう)の娘、清河長公主(せいかちょうこうしゅ)

【姓名】 曹氏(そうし) ※名とあざなは不詳

【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第091回で初登場。
【正史】 登場人物。

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魏(ぎ)の曹操(そうそう)の娘で曹丕(そうひ)の異母姉妹、清河長公主(せいかちょうこうしゅ)

父は曹操、母は劉氏(りゅうし。劉夫人〈りゅうふじん〉)。同母兄弟に曹昂(そうこう)と曹鑠(そうしゃく)がいる。

曹氏は、夏侯惇(かこうとん)の息子の夏侯楙(かこうぼう)に嫁いだ。

管理人「かぶらがわ」より

『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・夏侯惇伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』には、以下のようにあります。

「228年に曹叡(そうえい)が西方に親征したとき、夏侯楙について上言する者がいたため、彼は都に召し還されて尚書(しょうしょ)に任ぜられた」

「夏侯楙は西方(関中〈かんちゅう〉)に在任中、数多くの家妓(かぎ)や側妾(そくしょう)を抱えており、このことが原因で清河公主と不和になった」

「その後、夏侯楙の弟たちに礼を踏み外した振る舞いがあり、しばしば夏侯楙は厳しく叱責した。処分を恐れた弟たちは共謀して夏侯楙の罪をでっちあげ、清河公主から上奏してもらった。これを受けて夏侯楙は逮捕された」

「初め曹叡は夏侯楙の処刑を考えたが、長水校尉(ちょうすいこうい)の段黙(だんもく)の進言を容れ、詔(みことのり)を下して調査を命じた」

「その結果、夏侯楙の弟の夏侯子臧(かこうしそう)と夏侯子江(かこうしこう)がでっちあげたものだと判明した」

この後の処分に関する記事がないのですっきりしませんが、夏侯楙は罪に問われなかったということでしょう。夏侯子臧と夏侯子江はどうなったのでしょうか?

また『三国志』(魏書・陳思王植伝〈ちんしおうしょくでん〉)の裴松之注に引く魚豢の『魏略』によると、「かつて曹操は丁儀(ていぎ)の父の丁沖(ていちゅう)から教えを受けたことがあり、いつも丁沖に感謝していた」といいます。

「丁沖の息子の丁儀が立派な人物だと聞くと、顔も見ないうちから娘(清河公主)を娶(めあわ)せたいと思い、五官将(ごかんしょう。五官中郎将〈ごかんちゅうろうしょう〉。ここでは息子の曹丕のこと)に意見を聴いた」

「すると五官将は言った。『女性は容貌を気にするものですが、正礼(せいれい。丁儀のあざな)は目の具合が良くありませんから、彼女(清河公主)は喜ばないかもしれません。伏波将軍(ふくはしょうぐん。夏侯惇)の息子の夏侯楙に遣るほうがよろしいでしょう』。曹操はその意見に従った」ということです。

丁儀は公主を娶れなかったことを恨み、臨菑侯(りんしこう。曹植〈そうしょく〉)と親交を結んで、たびたびその優れた才能を称揚したのだとか。

ということで『魏略』では、丁儀が曹植に付いた過程に清河公主が関わっていたことが描かれています。

同じく『三国志』(魏書・陳思王植伝)の裴松之注に引く魚豢の『魏略』には、「223年に曹植が入朝した際、まだ関(函谷関〈かんこくかん〉)に着く前の曹植が、自身の過失を曹丕に謝罪しなくてはならないと思った」とあり――。

「そこで侍従官を(かんとう。函谷関以東の地域)に留め置き、数人だけを連れ、密かに都に入って清河長公主と会い、公主をつてとして謝罪しようと考えた」ともあります。

清河長公主は、魏の帝族の頼れる姉貴的な存在だったみたいですね。

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