黄朗(こうろう)

【姓名】 黄朗(こうろう) 【あざな】 文達(ぶんたつ)

【原籍】 沛郡(はいぐん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

努力を重ねて「太守(たいしゅ)」に昇る

父母ともに不詳だが、父は出身の県で従卒をしていたという。

黄朗は世事に通じ、誠実な人柄だった。彼は父の姿を見て発奮し、高い志をもって遊学。やがて四方の国々や士大夫らからも認められ、礼遇されるようになった。

中でも東平(とうへい)の名族だった王恵陽(おうけいよう)とは固い交わりを結ぶ。王恵陽は黄朗の家を訪ね、その母の寝台のそばで親しく拝礼したほどだった。

曹丕(そうひ)の黄初(こうしょ)年間(220~226年)、黄朗は初めて出仕し、県の長吏(ちょうり。「県令〈けんれい〉」や「県長〈けんちょう〉」)となる。やがて「長安県令(ちょうあんけんのれい)」に昇進したが、母の死に遭ったため赴任しなかった。

のち「魏県令(ぎけんのれい)」となり、襄城郡(じょうじょうぐん)の「典農中郎将(てんのうちゅうろうしょう)」を経て「涿郡太守(たくぐんのたいしゅ)」に昇進。そして、曹叡(そうえい)の時代(226~239年)に病死した。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は、『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・裴潜伝〈はいせんでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』によるもの。

また『魏略』には、「初め黄朗が『県令』や『県長』になったとき(身分の低かった)父のことを思い、いつも部下に対して(名では呼ばずに)姓やあざなで呼んだ。どれほど怒っているときでも、そのことは変わらなかった」ともありました。

黄朗は父の苦労を見て育ったのでしょうが、自身の努力で高い評価を得るに至り、部下に驕(おご)った態度を見せなかったのは立派ですね。

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コメント

  1. つねまる より:

    おはようございます。ご無沙汰しております。
    リンクの件は当方のミスでございます。大変失礼致しました。
    復旧致しましたのでご確認くださいませ。
    今後とも何卒よろしくお願い申し上げます。
    まずは用件まで。

  2. かぶらがわ より:

    つねまるさん、上記の件、確かに承りました。

    リンク先の増減もあるようですから、こういうことは起こりがちだと思います。くれぐれもお気になさいませんように……。

    これまでのつねまるさんとのやり取りを思い返すと違和感があったので、念のためお問い合わせした次第です。

    とりあえず安心しました。

    先日、開設から2周年の節目を迎えられたのですね。遅ればせながらおめでとうございます。

    更新も順調なようで何よりです。