王思(おうし)

【姓名】 王思(おうし) 【あざな】 ?

【原籍】 済陰郡(せいいんぐん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

役人としては有能だったが、性格に難あり

父母ともに不詳。

王思は梁習(りょうしゅう)とともに「西曹令史(せいそうのれいし)」を務めたことがあり、当直の際、政治に関する意見書を差し出して曹操(そうそう)の機嫌を損ねた。

曹操が「司空(しくう)」を務めていた196~208年のことだと思われる。

曹操は激怒し、王思を呼んで重罪に問おうとする。だが呼び出しを受けたとき、ちょうど王思は席を外していたため、梁習が代わりに出向き逮捕された。急いで戻ってきた王思は罪を自白し、死刑に相当するとも述べた。

だが曹操は、梁習が人のことを言わなかった態度と、王思の責任をわきまえた態度に感心して言う。

「わが軍中にふたりの義士がいようとは思わなかったぞ」

のち(206年?)ふたりは同時に「刺史(しし)」として抜てきされ、王思は「豫州刺史(よしゅうのしし)」となる。

王思は能吏ではあったものの細かいことに厳しく、大局的な判断力に欠けるところがあった。それでも曹丕(そうひ)の黄初(こうしょ)年間(220~226年)には「関内侯(かんだいこう)」に封ぜられ、曹芳(そうほう)の正始(せいし)年間(240~249年)には「大司農(だいしのう)」まで昇ったという。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は、ほぼ『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・梁習伝)によるものです。

また、その裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』(苛吏伝〈かりでん〉)には、王思は細かいことにやかましかったが、法律関連の文書に明るく、優れた人物を敬い礼を尽くしたうえ、状況の変化にうまく対応したので評判は良かった、とありました。

ただ、正始年間に「大司農」となったころには、老年のため目が見えにくくなっていて腹を立ててばかりいたのだと。

さらに、彼は人を信用しなかったそうで……。父が危篤になった部下が休暇を願い出たときも、噓をついていると疑って聞き入れなかった。部下の父は翌日に亡くなったが、王思は気にも留めなかったという。

加えて王思はせっかちで、筆を執って書類を作っていたとき、筆の先に蠅(ハエ)が集まり、追い払っても逃げないことがあった。怒った彼は立ち上がって追い払おうとするも、やはりうまくいかない。すると筆を床に投げつけ、足で踏みつぶしてしまったのだとか。

こういった話が事績より大きく採り上げられているのは少し気の毒な感じもしますけど、特に晩年は扱いにくい人物だったようですね。

『三国志』(魏書・辛毗伝〈しんぴでん〉)の記事からは曹叡(そうえい)の時代(226~239年)に、王思が「尚書僕射(しょうしょぼくや)」を務めていたこともうかがえました。

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