向朗(しょうろう) ※あざなは巨達(きょたつ)

【姓名】 向朗(しょうろう) 【あざな】 巨達(きょたつ)

【原籍】 襄陽郡(じょうようぐん)宜城県(ぎじょうけん)

【生没】 ?~247年(?歳)

【吉川】 第199話で初登場。
【演義】 第063回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・向朗伝』あり。

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80歳を超えても衰えぬ向学心

父母ともに不詳。向寵(しょうちょう)と向充(しょうじゅう)は甥。息子の向条(しょうじょう)は跡継ぎ。

向朗は若いころ司馬徽(しばき)に師事し、徐庶(じょしょ)・韓嵩(かんすう)・龐統(ほうとう)らとも親しかった。

やがて向朗は、荊州牧(けいしゅうぼく)の劉表(りゅうひょう)に仕えて臨沮県長(りんしょけんちょう)を務める。

そして208年に劉表が死去すると、劉備(りゅうび)に帰服した。

この年、劉備が江南(こうなん)を平定すると、向朗は秭帰(しき)・夷道(いどう)・巫(ふ)・夷陵(いりょう)の4県の軍事と民政を統括。

214年、劉備が成都(せいと)で劉璋(りゅうしょう)を降した後、向朗は巴西太守(はせいたいしゅ)、牂牁太守(そうかたいしゅ)、房陵太守(ぼうりょうたいしゅ)を歴任する。

223年、劉禅(りゅうぜん)が帝位を継ぐと、向朗は歩兵校尉(ほへいこうい)となり、王連(おうれん)に代わって丞相長史(じょうしょうちょうし)を務めた。

225年、丞相の諸葛亮(しょかつりょう)が南征に赴くと、向朗は成都に留まって丞相府の業務を取り仕切る。

227年、向朗は諸葛亮に付き従い、漢中(かんちゅう)へ赴く。

翌228年、諸葛亮が軍勢をひきいて祁山(きざん)に向かうと、魏延(ぎえん)や呉壱(ごいつ。呉懿〈ごい〉)ら老練な将軍ではなく、馬謖(ばしょく)を先鋒に抜てきする。

ところが馬謖は、街亭(がいてい)で魏(ぎ)の張郃(ちょうこう)に撃破され、配下の兵士は散りぢりになってしまう。諸葛亮も進軍を諦めざるを得なくなり、漢中へ引き返した。

このとき馬謖は逃亡を図ったが、向朗は同郷で日ごろから彼と仲も良かったため、事情を知りつつ黙認する。このことで諸葛亮の不興を買い、向朗は免官されて成都へ送り還された。

結局、馬謖は投獄された末に死去した。しかし数年後、向朗は光禄勲(こうろくくん)に任ぜられる。

234年、諸葛亮が死去した後、向朗は左将軍(さしょうぐん)に転じ、これまでの功績を採り上げられて顕明亭侯(けんめいていこう)に封ぜられ、特進(とくしん。三公に次ぐ待遇)の位を賜った。

247年、向朗は死去し、息子の向条が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると、向朗は若いころから幅広い学問を修めたものの、品行を整えようとせず、あくまで実務能力をもって評価されたといい、馬謖の件で丞相長史を辞めさせられた後はゆったりと過ごすようになったそう。

そして改めて典籍の研究に没頭し、80歳を超えてなお書物の校勘を続け、それらの誤謬(ごびゅう)を訂正したのです。また熱心に書物を収集したので、当時としては最大の蔵書規模を誇ったのだとも。

向朗は門戸を開いて賓客と接し、後進を導きましたが、ただ古代の道義を説くだけで時事には触れず、そのような態度によって評価を受けます。上は政治に携わるような者から、下は子どもに至るまで、みな彼を敬い、尊重したということでした。

馬謖の逃亡を本当に黙認したのなら、その後の向朗の処遇には謎が残りますね。

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