陳化(ちんか) ※あざなは元耀(げんよう)

【姓名】 陳化(ちんか) 【あざな】 元耀(げんよう)

【原籍】 汝南郡(じょなんぐん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

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魏(ぎ)の曹丕(そうひ)をうならせた弁舌の士

父母ともに不詳。陳熾(ちんし)という息子がいた。

陳化は幅広い分野の書物を読み、気概と才幹を備え、剛毅な性格だった。加えて身長が7尺(せき)9寸もあり、そのたたずまいから典雅さや威風が感じられたという。

陳化が郎中令(ろうちゅうれい)として魏に使いした折、酔った曹丕が嘲笑を含んでこう尋ねる。

「いま呉(ご)と魏が対峙(たいじ)しているが、天下を統一するのはどちらであろうか?」

すると陳化は『易経(えききょう)』を引き、偉大な先人たちがみな、天子(てんし)の運気は東南(つまり呉)にあるとおっしゃっている、とやり返した。

さらに曹丕が言う。

「むかし周(しゅう)の文王(ぶんのう)が西伯(せいはく)の地位から天下の王者となったが、それでもまだ東方にこだわるのか?」

だが陳化は、周が国家の基盤を築けたのは、(呉の)太伯(たいはく)が東方におられたからこそだと応え、やはり一歩も引かない。

さすがの曹丕も笑みを浮かべてそれ以上は問わず、心中で陳化の弁才を高く評価し、彼の帰国時には丁重な礼を執った。

孫権(そんけん)は、陳化が見事に使者の役目を果たして帰国したため(名目上の)犍為太守(けんいたいしゅ)に任じ、その下に官属を置いた。

225年、陳化は、太常(たいじょう)の顧雍(こよう)が丞相(じょうしょう)に就任したことに伴い、代わって太常に任ぜられ、尚書令(しょうしょれい)を兼ねる。

陳化は真摯な態度で朝廷に臨み、自身の子弟に利殖につながる事業をやめさせ、俸禄だけで暮らすよう命じ、人々と利を争うことを許さなかった。

また陳化は早くに妻を亡くしていたが、古事に則り再婚しなかった。

孫権はこの話を聞いて感心したものの、陳化が30歳ほどだったので、宗正(そうせい。官名)に命じて宗室の娘を嫁がせようとする。

しかし陳化は病気を理由に固辞し、孫権も彼の意思を尊重して無理強いしなかった。

その後、陳化は70歳を過ぎて引退を願い出、章安(しょうあん)の自宅で死去(時期は不明)した。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く韋昭(いしょう。韋曜〈いよう〉)の『呉書』によるもので、陳化の名は『三国志』の本文には見えません。

陳化は巧みな弁舌で曹丕を感心させ、孫権の面目を保ちました。そして大官に昇った後も私利にこだわらない姿勢を貫き、天寿を全うしたのです。

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