吉茂(きつぼう)

【姓名】 吉茂(きつぼう) 【あざな】 叔暢(しゅくちょう)

【原籍】 馮翊郡(ひょうよくぐん)池陽県(ちようけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

清介(せいかい。心が清らかなため世間と合わず、孤独な様子)ぶりはイマイチ

父母ともに不詳。吉黄(きつこう)は同母兄。

吉茂の家は代々の豪族だったが、彼は書物を好み、悪衣悪食を恥とせず、ひとつでも知らないことがあるのを恥とした。

建安(けんあん)年間(196~220年)の初めに関中(かんちゅう)が平定されると、吉茂は扶風(ふふう)の蘇則(そそく)と武功(ぶこう)の南山(なんざん。太白山〈たいはくざん〉。終南山〈しゅうなんざん〉)へ入り隠棲(いんせい)し、数年間、思索にふけった。

207年、兄の吉黄が「公府掾(こうふのえん)」から「長陵県令(ちょうりょうけんのれい)」に転ずる。

当時の法令では、「県令」や「県長」は勝手に官を去ることを禁ぜられていた。ところが吉黄は、司徒(しと。194~208年?)の趙温(ちょうおん)が亡くなった(時期は不明)と聞くと、自分がもと部下だったことから葬儀に駆けつける。このことで司隷校尉(しれいこうい)の鍾繇(しょうよう)に逮捕され、法により処刑された。

そのころ吉茂は無官だったが、兄は道義を追ったために死んだと考える。恨みと怒りが募り、哭(こく。死者に対して大声を上げて泣く礼)することはなかった。

その年(?)の終わり、鍾繇が吉茂を推挙した。みな吉茂は応じないとみていたが、知らせが届くと彼は応じた。

鍾繇が推挙した話と、下の茂才に推挙された話との兼ね合いがよくわからず。

吉茂は州(雍州〈ようしゅう〉?)からも茂才(もさい)に推挙され「臨汾県令(りんふんけんのれい)」となる。当地では清廉かつ静謐(せいひつ)で、官民は彼をだますようなことをしなかった。

218年、族人の吉本(きつほん)らが漢(かん)のために事を起こした際、吉茂も連座し逮捕される。

それ以前、法令によって内学(予言な神秘について説く讖緯〈しんい〉の学)や兵学に関する書物の所有が禁止された。しかし、吉茂はどちらの書物も持っていながら、これらを隠して差し出さなかった。

吉茂は逮捕されたとき、吉本らに連座することを知らず、側近にこう言った。

「私は書物のことで法に引っかかったのだ」

たまたま相国(しょうこく。216~219年)の鍾繇が、吉茂と吉本とは、すでに喪に服し合うような近い関係が断ち切れていると証明したため、吉茂は連座を免れた。

のち吉茂は武徳侯(ぶとくこう。220~221年)の曹叡(そうえい)の「庶子(しょし。官名)」に転ずる。さらに「武陵太守(ぶりょうのたいしゅ)」に任ぜられたが、就任しなかった。

吉茂は「鄼国相(さんこくのしょう)」に転じたものの、国が廃されたので「議郎(ぎろう)」に任ぜられる。その後、曹叡の景初(けいしょ)年間(237~239年)に病死した。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は、『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・常林伝〈じょうりんでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』によるもの。

この『魏略』では、常林・吉茂・沐並(もくへい)・時苗(じびょう)の4人をまとめて「清介伝」としているそうです。

吉茂が武徳侯(曹叡)の「庶子」になったという記事は、吉本らが事を起こす記事の前にあったのですけど……。曹叡が「武徳侯」に封ぜられていたのは220~221年のことなので、時期が合わないと思います。ここは順番を入れ替えて解釈しました。

ちなみに原文では、吉本らの決起から吉茂の連座(逮捕)が「(建安)二十二年」のことになっていましたが、これも「建安23(218)年」と見たほうがいいでしょう。

吉茂は南山を下りた後も、冬は皮の衣服、夏は短い衣服を身に着け、徒歩で行動し、野草を食べ、(奴隷を雇わずに)妻子をこき使ったといいます。家はがらんとしており、贈り物をいっさい受け取らなかったとも。

こうした生き方をしているからと高尚ぶったりはしなかったものの、やはり心中で道義に外れ富貴を得ている者を憎んでいたのだと。

ですが、兄の死に納得していなかったはずなのに鍾繇の推挙に応じてしまうあたり。ここまで採り上げてきた高士的な人物とは何か違うなと感じました。

スポンサーリンク

おすすめ記事(広告を含む)

【この記事をシェアする】

【更新情報をフォローする】