魏諷(ぎふう)

【姓名】 魏諷(ぎふう) 【あざな】 子京(しけい)

【原籍】 沛国(はいこく) ※「済陰郡(せいいんぐん)」ともいう。

【生没】 ?~219年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

多くの人々を巻き込み、鄴(ぎょう)で反乱を企てる

父母ともに不詳。

魏諷には民衆を巧みに扇動する才能があり、それは鄴の都を揺り動かすほどだった。そこで相国(しょうこく。216~219年)の鍾繇(しょうよう)がを召し寄せ、「相国掾(しょうこくのえん。相国西曹掾〈しょうこくせいそうえん〉)」として手元に置く。

219年1月、劉備軍(りゅうびぐん)と戦っていた夏侯淵(かこうえん)が陽平関(ようへいかん)で戦死。

同年3月、曹操(そうそう)自ら劉備討伐に赴き、斜谷(やこく)から漢中(かんちゅう)へと進んだ。

魏諷はこの隙を突き、ひそかに徒党を組む。さらに長楽衛尉(ちょうらくえいい)の陳禕(ちんい)と共謀し、鄴の襲撃を企てた。しかし約束の期日の前に陳禕がおじけづき、留守を預かる王太子(おうたいし)の曹丕(そうひ)に陰謀を自白してしまう。

同年9月、魏諷は処刑され、この事件に連座して処刑された者も数十人に上った。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は、『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く郭頒(かくはん)の『世語(せいご。魏晋世語〈ぎしんせいご〉)』によるものです。

魏諷の反乱計画に関わって処刑を含む処罰を受けた者は多く、各所に関連記事が見られます。

張繡(ちょうしゅう)の息子の張泉(ちょうせん)は誅殺され封邑(ほうゆう)も没収。中尉(ちゅうい)の楊俊(ようしゅん)は責任を感じ、自ら出頭して「平原太守(へいげんのたいしゅ)」に左遷。

「中尉」は「執金吾(しつきんご)」の前身で、宮中の警備をつかさどった。

相国の鍾繇は責任を問われ免職(ただし、翌220年には「大理〈だいり〉」として復帰)。

王粲(おうさん)のふたりの息子(名は不詳)は処刑され、跡継ぎが絶えました(ただ、のち王粲の族兄〈いとこ。一族の同世代の年長者〉の王凱〈おうかい〉の息子である王業〈おうぎょう〉が跡継ぎとして立てられています)。

劉偉(りゅうい)は処刑されましたが、その兄の劉廙(りゅうい)は魏諷との交際に反対しており、特に許され連座を免れています(陳羣〈ちんぐん〉の減刑要請も効きました)。

文欽(ぶんきん)は魏諷に連なる言葉を吐いていたため投獄。数百回の鞭(むち)打ちを受けたものの、父の文稷(ぶんしょく)の功が考慮され許されました。

宋忠(そうちゅう)の息子(名は不詳)は処刑。

ざっと拾い出しただけでもこのような具合なので、魏諷の事件が与えた影響の大きさがうかがえると思います。

そして『三国志』(魏書・劉表伝〈りゅうひょうでん〉)の裴松之注に引く傅玄(ふげん)の『傅子(ふし)』には、魏諷は才知がある人物として有名だったものの、傅巽(ふそん)は彼が必ず謀反を起こすと言った、という話がありましたし……。

また『三国志』(魏書・劉曄伝〈りゅうようでん〉)の裴松之注に引く『傅子』にも、魏諷と同じく、後(227年)に謀反を起こすことになる孟達(もうたつ)の話に絡めて以下のようにありました。

「むかし曹操の時代(220年以前)、魏諷は評判が高く、大臣以下みな彼に心を寄せ付き合った。のち(220年)孟達が劉備から離れて曹丕に付くと、魏の論者には『楽毅(がくき)の器量がある』とたたえる者が多かった。だが劉曄は魏諷や孟達を一見するや、『謀反を起こすに違いない』と言った」

「楽毅」は戦国(せんごく)時代の燕(えん)の名将。

劉廙も弟の劉偉に、魏諷と交際しないよう諫めていたそうですから、その本性を見抜いていた人が少なからずいたのですね。留守を預かる役目が重要なのはよくわかりましたけど、もし陳禕が自白しなかったら、大変な混乱が起きていたことでしょう。

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