諸葛瑾(しょかつきん)

【姓名】 諸葛瑾(しょかつきん) 【あざな】 子瑜(しゆ)

【原籍】 琅邪郡(ろうやぐん)陽都県(ようとけん)

【生没】 174~241年(68歳)

【吉川】 第113話で初登場。
【演義】 第029回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・諸葛瑾伝』あり。

誠実な人柄で孫権(そんけん)から絶大な信頼を得る

父は諸葛珪(しょかつけい)だが、母は不詳。諸葛玄(しょかつげん)は従父(おじ)。諸葛亮(しょかつりょう)と諸葛均(しょかつきん)は弟。龐徳公(ほうとくこう)の息子の龐山民(ほうさんみん)に嫁いだ姉妹のほか、別に姉妹がいたこともうかがえる。

諸葛恪(しょかつかく)・諸葛喬(しょかつきょう)・諸葛融(しょかつゆう)という息子がおり、爵位を継いだのは諸葛融。なお、諸葛喬は諸葛亮の養子になった。

諸葛瑾は後漢末(ごかんまつ)の戦乱を避けて江東(こうとう)へ移る。このころ孫策(そんさく)の急死(200年のこと)を受け孫権が跡を継いだばかりで、その姉婿の弘咨(こうし)が諸葛瑾を高く評価し推挙した。

諸葛瑾は魯粛(ろしゅく)らと並び賓客となり、のち孫権の「長史(ちょうし)」を経て「中司馬(ちゅうしば)」に転ずる。

215年、諸葛瑾は使者として益州(えきしゅう)へ赴き、劉備(りゅうび)に親善の意(本題は荊州〈けいしゅう〉の返還要求)を伝えた。だが、彼は公式の場で弟の諸葛亮と顔を合わせることがあっても、退席後に私的に会うことはなかったという。

219年、諸葛瑾は荊州の関羽(かんう)討伐に参加し「宣城侯(せんじょうこう)」に封ぜられる。さらに「綏南将軍(すいなんしょうぐん)」に任ぜられ、呂蒙(りょもう)に代わって「南郡太守(なんぐんのたいしゅ)」を務め、公安(こうあん)に住んだ。

221年、劉備が帝位に即き孫権討伐の東征に乗り出すと、孫権は講和を望む。諸葛瑾は主君の意向を受け、劉備に翻意を促す手紙を送ったりもした。

このころ、諸葛瑾が非公式の使者を遣わし、ひそかに劉備と通じているという者がいたが、孫権はこう言って気にもかけない。

「私と子瑜(諸葛瑾のあざな)とは死生を超えて心を変えないとの誓いを結んでいる。子瑜が私を裏切らないのは、私が子瑜を裏切らないのと同じことなのだ」

翌222年、諸葛瑾は「左将軍(さしょうぐん)・公安督(こうあんのとく)・仮節(かせつ)」に昇進し「宛陵侯(えんりょうこう)」に移封された。

この年、魏(ぎ)は曹休(そうきゅう)・張遼(ちょうりょう)・臧霸(そうは)らを遣わし洞口(どうこう)まで、さらに曹仁(そうじん)には濡須(じゅしゅ)まで、それぞれ軍勢を進ませる。

そして、曹真(そうしん)・夏侯尚(かこうしょう)・張郃(ちょうこう)・徐晃(じょこう)には南郡(江陵〈こうりょう〉)を包囲させたうえ、長江(ちょうこう)の中州にも別軍を繰り出し陣を構えた。

諸葛瑾は大軍をひきいて南郡の救援に向かったものの、持ち前の性格から臨機応変の動きを見せず、なかなか戦果を上げられない。

やがて翌春の出水の時期を迎えると、味方の潘璋(はんしょう)らが筏(いかだ)を使い水上に砦(とりで)を築き、諸葛瑾も魏軍の架けた浮橋を攻めたので、ようやく曹真らを撤退させることができた。

これら一連の戦いにおいて、諸葛瑾は大功こそ立てなかったが、兵を損ぜずに呉の領土を守ったとして評価された。

229年、孫権が帝位に即くと、諸葛瑾は「大将軍(だいしょうぐん)・左都護(さとご)」に任ぜられ「豫州牧(よしゅうのぼく)」を兼ねる。

241年、諸葛瑾は68歳で死去したが、簡素な葬儀を執り行うよう遺言を残す。息子の諸葛恪はすでに「侯」に封ぜられていたため、その弟の諸葛融が爵位を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

「諸葛」という姓について、本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)にふた通りの説が載せられていました。

まず韋昭(いしょう。韋曜〈いよう〉)の『呉書』によると、諸葛瑾の先祖の葛氏(かつし)はもともと琅邪の諸県(しょけん。県名)の人だったが、のちに陽都県へ移住したそうです。

陽都県にはすでに葛姓の人が住んでいたため、みな諸県から移ってきた葛氏を「諸葛氏」と呼び区別したが、やがてこれがそのまま姓になったのだという。

そして応劭(おうしょう)の『風俗通(ふうぞくつう)』によると、葛嬰(かつえい)は陳渉(ちんしょう)に仕えて「将軍」となり、功を立てたものの誅殺されてしまいます。

前漢(ぜんかん)の文帝(ぶんてい。在位、前180~前157年)は生前の葛嬰の功績を認め、彼の孫を「諸県侯」に封じましたが、このとき「諸」と「葛」を併せて姓にしたのだという。

また本伝によると、諸葛瑾は孫権を諫めようとするとき、決して激しい言葉を使わず、思うところを少しだけ表に出してみせ、大まかな意見を述べるにとどめたといいます。

孫権に受け入れられないと見ると話題を変え、ほかのことに託し意見を述べ、物に例えて同意を引き出そうとしました。すると孫権の気持ちが変わり、彼の意見が容れられることも多かったのだとか。

張昭(ちょうしょう)などから面詰されては、たびたび腹を立てていた孫権。諸葛瑾の対応は主君の性格をうまくつかんだものといえますね。

諸葛瑾は立派な容貌と思慮深さを備えており、当時の人々は彼の真っすぐさや度量の広さに心服。孫権も彼を尊重し、重要な事柄についての意見を聴くことが多かったともありました。

慎重すぎるあまり軍事のほうでは冴えなかったようですが、あくまで誠実な態度で仕え続け、孫権の厚い信頼を得た諸葛瑾。弟の諸葛亮に妙な対抗意識を燃やすこともなく、まれに見る人格者だったと思います。

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