曹沖(そうちゅう) ※あざなは倉舒(そうじょ)、魏(ぎ)の鄧哀王(とうあいおう)

【姓名】 曹沖(そうちゅう) 【あざな】 倉舒(そうじょ)

【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん)

【生没】 196~208年(13歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・鄧哀王沖伝(とうあいおうちゅうでん)』あり。

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魏(ぎ)の曹操(そうそう)の息子で曹丕(そうひ)の異母弟、鄧哀王

父は曹操、母は環氏(かんし)。同母弟には曹拠(そうきょ)と曹宇(そうう)がいる。

曹沖は幼いころから聡明(そうめい)で、曹操に寵愛されたが、208年に13歳で病死した。

その死をひどく悲しんだ曹操は、甄氏(しんし)の亡くなった娘を娶(めと)って一緒に葬り、騎都尉(きとい)の印綬(いんじゅ。官印と組み紐〈ひも〉)を贈った。そして、宛侯(えんこう)の曹拠の息子である曹琮(そうそう)に曹沖の跡を継がせた。

217年、曹琮が鄧侯に封ぜられた。

221年、曹沖に鄧哀侯の諡号(しごう)が追贈され、同年に鄧哀公と改められた。さらに231年には鄧哀王と改められた。

管理人「かぶらがわ」より

本伝には曹沖の聡明さを示す一例として、孫権(そんけん)から贈られた巨象の重さを量った話が載せられています。

曹操は象の重さが知りたいと思い、その方法を群臣に尋ねた。しかし、みな良い考えが浮かばない。このとき、まだ5、6歳だった曹沖が言った。

「象を大きな船に載せ、船体が沈んだところに目印を付けて、それに見合う重さの石を載せればわかるのではないでしょうか?」

曹操は大いに喜び、すぐに実行させたという。

『中国の歴史4 三国志の世界 後漢 三国時代』(金文京〈きん・ぶんきょう〉著 講談社)によると、曹沖が象の重さを量る方法を思いついた件は「もとは『雑宝蔵経(ぞうほうぞうきょう)』の『棄老国因縁(きろうこくいんねん)』に出る話であって事実ではありえない」とのことでした。「おそらくこの時代に流行した夙慧(しゅくけい。幼いころから賢い様子)、神童の話に仏典が利用されたのであろう」とも。

このほかにも、曹沖が機転を利かせて倉庫係を救った話も載せられていました。

当時は軍事や政治がらみの事件が多発したため、刑罰の適用は厳格だった。そんな折、倉庫に保管されている曹操の馬の鞍(くら)が、鼠(ネズミ)にかじられた。

倉庫係は死刑になると思って不安を募らせたが、曹沖は彼らに言った。

「3日間待ってから自首するとよい」

そして曹沖は、刀を用いて自分の単衣(ひとえ)に鼠がかじったような穴を開け、落ち込んだ様子をしてみせる。

曹操が尋ねると、曹沖はこう答えた。

「世間では鼠に衣服をかじられると、持ち主に不吉なことが起きると申しております。私の単衣がかじられたので心配なのです……」

すると曹操は言った。

「それはいい加減な言葉にすぎぬ。気にすることはない」

そこへ例の倉庫係が、曹操の鞍がかじられた件を報告に来た。

曹操は笑いながら言った。

「子どもの衣服は、そばに置いてあってもかじられる。ましてや鞍は、柱に掛けてあるのだから仕方あるまい」

こうして倉庫係は一切責任を追及されなかったという。こういう具合に、曹沖のおかげで処罰を受けずに済んだ者が数十人もいたのだとか。

曹操の寵愛ぶりは、曹沖が病にかかると自ら命乞いの祈りを捧げたほど。彼の死後、曹丕が曹操を慰めたとき、「曹沖の死は私にとって不幸だが、お前たちにとっては幸いだ」とまで言ったという。

また、本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』によると、曹丕も曹沖の素質は認めていたようで、いつもこう言っていたという。

「長兄の孝廉(こうれん。曹昂〈そうこう〉のこと)にはおのずから限界があったが、もし倉舒(曹沖)が生きていれば、私は天下を支配できなかっただろう」

曹彰(そうしょう)とはタイプが違いますけど。この曹沖も、もう少し長生きだったら魏の波乱のタネになっていたでしょうね。

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