楊豊(ようほう)B ※もとの名は「楊阿若(ようあじゃく)」

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【姓名】 楊豊(ようほう) 【あざな】 伯陽(はくよう)

【原籍】 酒泉郡(しゅせんぐん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

一介の俠客(きょうかく)から「駙馬都尉(ふばとい)」へ

父母ともに不詳。もとの名を「阿若(あじゃく。楊阿若)」という。

楊豊は若いころ俠客となり、あだ討ちなど、人の恨みを晴らすことを生業にする。そのため当時の人々から、「東市に相斫(き)る楊阿若、西市に相斫る楊阿若」と称されていた。

建安(けんあん)年間(196~220年)、酒泉太守(しゅせんたいしゅ)の徐揖(じょゆう)が郡中の豪族の黄氏(こうし)一族を誅殺。

このとき黄昂(こうこう)は脱出できたので、自家の穀物と金を数斛(すうこく)遣い、1千余人を集めて徐揖を攻めた。これを受け徐揖は城に立てこもる。

ちょうど外出していた楊豊が戻ると、黄昂の行いを不義と感じ、妻子を残して張掖(ちょうえき)まで救援を求めに行く。ところが張掖でも反乱が起きており、太守は殺害されていた。そのうち黄昂のほうも城を陥し、徐揖を殺害した。

酒泉と張掖の両郡の賊は勢力を合わせるが、黄昂は楊豊が同調しないことに腹を立て、彼に高額の賞金を懸け生け捕りにしようとする。

それでも楊豊はうまく逃げ切り、武威太守(ぶいたいしゅ)の張猛(ちょうもう)から仮の「都尉(とい)」に任ぜられた。さらに触れ文を酒泉に告示し、徐揖のあだ討ちをすることも認めてもらう。

こうして楊豊は単騎で南羌(なんきょう)の地へ入り、1千余騎を集め、楽カン(らくかん。氵+官)の南の山中を抜け酒泉の郡城を目指す。

やがて城から30里(り)の所まで近づくと、みなに下馬を命じ、柴(シバ)を引きずり砂ぼこりを揚げさせる。それを見た酒泉の者たちは東方の大軍が到着したのだと思い込み、ついに四散してしまった。黄昂は逃げ出したところを羌族に捕らえられ、ほどなく楊豊に殺害された。

このころ黄華(こうか。酒泉の黄氏一族)が東方にいたが、戻ってきて郡を支配する。楊豊は黄華を恐れ、西方の燉煌(とんこう)へ逃げ込んだ。

221年、鄒岐(すうき)に代わって「涼州刺史(りょうしゅうのしし)」となった張既(ちょうき)らの活躍により、河西(かせい)はもとの落ち着きを取り戻す。黄華も降伏したため、ようやく楊豊は酒泉に帰ることができた。

郡では楊豊を孝廉(こうれん)に推挙し、州も彼の義勇について上表する。すぐさま詔(みことのり)が下り「駙馬都尉」に任ぜられた。

その後、楊豊は20余年して病死(時期は不明)したという。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は、『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・閻温伝〈えんおんでん〉)に付された「張就伝(ちょうしゅうでん)」の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』(勇俠伝)によるもの。

黄氏一族が誅殺された際、何とか逃れた黄昂が酒泉太守の徐揖を殺害したことから、楊豊は自身の義勇を発揮する機会を得ました。

「駙馬都尉」は六品の官職ですけど、比二千石(せき)というなかなかの高禄。いくら楊豊に義勇心があったとしても、きっかけがなければ街の親分で終わっていたかもしれませんね。

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