楊沛(ようはい)

【姓名】 楊沛(ようはい) 【あざな】 孔渠(こうきょ)

【原籍】 馮翊郡(ひょうよくぐん)万年県(ばんねんけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

剛直廉潔な名太守(めいたいしゅ)ながら、終(つい)の住み家は瓜牛廬(かぎゅうろ。カタツムリの殻の形をした小屋。蝸牛廬)

父母ともに不詳。

初平(しょへい)年間(190~193年)、楊沛は三公の府の「令史(れいし)」となり、やがて「新鄭県長(しんていけんのちょう)」に任ぜられる。

その後、興平(こうへい)年間(194~195年)の末になると、飢餓に苦しむ者が続出した。そこで楊沛は住民ごとに割り当てを定め、乾燥させた桑の実を従来より多めに蓄えるよう言いつけ、䝁豆(ろうとう。野生の豆)を収穫させた。

さらに調査を実施し、余裕のある者には余裕のない者の不足分を補わせる。こうして1千余斛(ごく)の備蓄ができたので、これを小さな倉庫にしまっておいた。

195年、曹操(そうそう)は「兗州刺史(えんしゅうのしし。兗州牧〈えんしゅうのぼく〉)」となり、翌196年には洛陽(らくよう)へ天子(てんし。献帝〈けんてい〉)を迎えに行ったものの、彼ら1千余人の食糧が底を突く。

曹操が新鄭を通った際、楊沛は目通りする機会があり、みなに乾燥した桑の実を提供。これには曹操も大いに喜んだという。

ほどなく曹操が政治を補佐するようになると、楊沛は「長社県令(ちょうしゃけんのれい)」に昇進。

このころ県境に曹洪(そうこう。曹操の従弟)の食客がいて、法律どおりの税を納めようとしなかった。すると楊沛は食客の脚をたたき折り、結局は殺害してしまう。

だが、このことからかえって曹操に有能さを認められ、九江(きゅうこう)・東平(とうへい)・楽安(らくあん)の「太守」を歴任し、いずれの地でも治績を上げた。

しかし、のちに楊沛は督軍(とくぐん。官名)ともめごとを起こし、5年の髠刑(こんけい。髪を剃〈そ〉る刑罰)に処される。

曹操が鄴(ぎょう)を離れ譙(しょう)に遠征していたとき、鄴で禁令に従わない者が多いと聞く。まだ楊沛は刑期の途中だったが、その厳格さと有能さにより「鄴県令」に起用された。

楊沛は任命後に曹操と会い、奴隷10人と絹100匹(ぴき)を賜る。これには彼への激励の気持ちに加え、以前に乾燥した桑の実を提供してもらった返礼の気持ちも込められていた。

こうして曹操との会見を終えた楊沛が鄴に着任しないうち、軍中の実力者である曹洪や劉勲(りゅうくん)らは恐れをなし、子弟に行動を慎むよう伝えさせたという。楊沛は「鄴県令」を数年務めたあと「護羌都尉(ごきょうとい)」に転じた。

211年、馬超(ばちょう)らが関中(かんちゅう)で反乱を起こすと、曹操は大軍をひきいて西征。楊沛も従軍し、孟津(もうしん)における渡河作戦を指揮した。そして関中平定後、張既(ちょうき)に代わって「京兆尹(けいちょうのいん)」を務める。

のち曹丕(そうひ)の黄初(こうしょ)年間(220~226年)になると、儒学の素養のある者が登用された。もともと楊沛は(学識ではなく)実務能力によって起用されていたため、「議郎(ぎろう)」として街で暇つぶしをする身になってしまう。

楊沛は前後にわたり郡県の長官を歴任したが、個人的な利益は意に介さず、高貴な人々に頭を下げようともしなかった。そのため引退後は家に余財がなかった。

病気で療養する際にも官舎から(身の回りの世話をしてくれる)少年を借りなくてはならないありさまで、自宅に奴婢(ぬひ)などいない。

のち楊沛は河南(かなん)の夕陽亭(せきようてい)にある荒田2頃(けい)をわが物とし、瓜牛廬を建てて暮らし始めたものの、彼の妻子は凍え飢えた。

その後、楊沛が病死(時期は不明)すると、郷里の者や親友に加え、以前の部下や民たちが葬儀と埋葬を執り行ったという。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は、『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・賈逵伝〈かきでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』によるもの。なお『魏略』では、賈逵・楊沛・李孚(りふ)の3人をまとめて一巻としているとのことです。

楊沛の治績には文句のつけようがありませんし、間違いなく名太守のひとりだったのでしょうけど……。どうにも割りきれないものを感ずるのはなぜなのか?

妻子が凍えたり飢えたりしない程度の蓄えを持つことも駄目なのか、という疑問。また、彼のような功労者に対するお上の扱いについての疑問。曹操が桑の実のお礼をしたという佳話も、楊沛の最期を見るとかすんでしまいますね。

スポンサーリンク

おすすめ記事(広告を含む)

【この記事をシェアする】

【更新情報をフォローする】