李孚(りふ)

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【姓名】 李孚(りふ) 【あざな】 子憲(しけん)

【原籍】 鉅鹿郡(きょろくぐん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 第119話で初登場。
【演義】 第032回で初登場。
【正史】 登場人物。

曹操軍(そうそうぐん)の包囲をかいくぐり鄴城(ぎょうじょう)へ連絡をつける

父母ともに不詳。もとは「馮姓(ふうせい。馮孚)」だったが、のちに「李姓」に改めたという。

興平(こうへい)年間(194~195年)、鉅鹿郡の民が飢えに苦しんだ。このとき李孚は学生だったものの薤(ニラ)を植えており、これが成熟するまで待つつもりでいた。

薤を欲しがる者が来ても1本も分けず、かと言って(成熟する前に)自分で食べるわけでもない。そのため当時の人々は、よく意志を貫く人物だと評した。やがて李孚は官吏になる。

202年、死去した袁紹(えんしょう)の跡を継ぎ、息子の袁尚(えんしょう)が冀州(きしゅう)を支配すると李孚は「主簿(しゅぼ)」として仕えた。

翌203年、袁尚は兄の袁譚(えんたん)を攻め立て、軍勢をひきいて平原(へいげん)まで進出。このとき別駕(べつが)の審配(しんぱい)が鄴城を守るべくとどまり、李孚は袁尚に随行した。

翌204年、曹操軍に鄴が包囲されると、袁尚は救援のため引き返す。途中、袁尚は鄴の守備兵が少ないことを心配し、城内の審配にこちらの動きを知らせたいと思い、誰を遣るべきか李孚に相談する。

李孚は自ら使者の役目を買って出ると、信頼できる者を3人選んで伴い、駿馬(しゅんめ)に乗って出発。梁淇(りょうき)まで来ると敵方の巡察官を装い、夜の間に鄴へ近づく。

そこからは曹操軍の「都督(ととく)」に成り済まし、巧みに包囲陣をくぐり抜け鄴の城壁にたどり着いた。

李孚は縄で引き上げてもらい、審配らと会い使命を果たす。さらにその帰路、再び敵の包囲を突破するのは難しいとして一計を案ずる。

審配は李孚の計に従い、城内の食糧を節約する狙いで、白旗とたいまつを持たせた数千の老人や子どもを夜間に城外へ追い出す。李孚は降伏者の着る服を用意し、従者とともに城外へ紛れ出る。

曹操軍では城内の者がみな降伏すると聞いていたので、彼らが手にしたたいまつの照り輝くさまを見ているばかりで、包囲陣のことまで気が回らなかった。北門から出た李孚は、西北の角から包囲を突破し袁尚のもとへ戻る。

だが袁尚は鄴を救うことができず、中山(ちゅうざん)へ敗走。ここで袁譚の追撃を受け、李孚は袁尚と離ればなれになってしまう。やむなく李孚は出頭し、今度は袁譚の「主簿」として仕えることになり、平原へ戻った。

翌205年、曹操の攻撃を受け袁譚が南皮(なんぴ)で戦死。李孚は再び平原へ戻り、城内でも曹操に降伏することが決まったが、なお混乱して落ち着かなかった。

そこで李孚は曹操の本営を訪ね、内密のことを口頭でお伝えしたいと言い目通りを願い出る。曹操は平原の城内が不安定だと聞き、李孚の考えで布令を出すことを許す。

李孚は城へ帰ると、みなにそれぞれの仕事に戻るよう伝え、お互いに侵害し合わないよう諭した。こうして城内は安定を取り戻す。曹操は復命を受け、李孚が使える人材であると判断したものの、一方で彼の悪いうわさも聞いたため閑職に任ずるにとどめた。

のち李孚は地方へ出て「解県長(かいけんのちょう)」を代行したが、厳格かつ有能との評判を得る。次第に昇進し「司隷校尉(しれいこうい)」となった。

そのとき李孚はもう70余歳だったが、精密さと果断さに衰えは見られず、計策にも以前と変わらぬ冴えがあったという。のち「陽平太守(ようへいのたいしゅ)」の在任中に死去(時期は不明)した。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は、『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・賈逵伝〈かきでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』によるもの。なお『魏略』では、賈逵・楊沛(ようはい)・李孚の3人をまとめて一巻としているとのことです。

機転が利くというか度胸があるというか……。曹操軍に厳重に包囲されている鄴への出入りはまことに鮮やかでした。なのに袁氏の兄弟は力を合わせることもなく、あっさり曹操に敗れてしまいます。これでは李孚の働きも報われませんね。

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