【姓名】 孫賁(そんほん) 【あざな】 伯陽(はくよう)
【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん)
【生没】 ?~218年?(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫賁伝』あり。
孫羌(そんきょう)の息子
父は孫羌だが、母は不詳。孫輔(そんほ)は弟。
息子の孫鄰(そんりん)は跡継ぎ。孫安(そんあん)・孫熙(そんき)・孫績(そんせき)も、同じく息子。ほかに曹操(そうそう)の息子の曹彰(そうしょう)に嫁いだ娘がいた。
孫賁は早くに両親を亡くし、まだ赤ん坊だった弟の孫輔の親代わりとして、よく面倒を見たという。やがて出仕して、郡の督郵守長(とくゆうしゅちょう)となった。
190年、叔父の孫堅(そんけん)が長沙(ちょうさ)で義兵を挙げると、官吏を辞めて討伐に付き従う。
192年(191年とも)に孫堅が亡くなった後は残された軍勢をひきい、柩(ひつぎ)を守って故郷へ戻った。
193年、袁術(えんじゅつ)が根拠地を寿春(じゅしゅん)へ移すと、その配下に入る。
袁紹(えんしょう)が周昂(しゅうこう)を九江太守(きゅうこうたいしゅ)に任ずると、袁紹と袁術との間で仲たがいが起きた。
孫賁は袁術の命を受けて、陰陵(いんりょう)で周昂を討ち破る。袁術の上表により豫州刺史(よしゅうしし)に任ぜられた。
その後、丹楊都尉(たんようとい)に転じて征虜将軍(せいりょしょうぐん)を兼任し、山越(さんえつ。江南〈こうなん〉に住んでいた異民族)の平定にあたった。
そのうち揚州刺史(ようしゅうしし)の劉繇(りゅうよう)の圧力が強まり、丹楊に留まれなくなったため、幕客や軍勢をひきいて歴陽(れきよう)へ移る。
しばらくして再び袁術の命を受け、呉景(ごけい)と共同で劉繇配下の樊能(はんのう)や張英(ちょうえい)を攻めたものの、すぐには陥せなかった。
翌194年、従弟の孫策(そんさく)が江東(こうとう)へ渡ってくると、その助力を得て樊能・張英らを撃破し、さらに軍勢を進めて劉繇を攻めた。劉繇は豫章(よしょう)へ逃走する。
孫賁は孫策の意向により、呉景とともに寿春へ戻り、袁術に勝利を報告した。
197年、袁術は皇帝を僭称(せんしょう)して百官の制度を定め、孫賁も九江太守に任ぜられた。しかしその官に就くことはなく、妻子を捨てて江南へ戻った。
このころ孫策は呉郡(ごぐん)と会稽郡(かいけいぐん)の平定を終えており、孫賁は孫策とともに廬江太守(ろこうたいしゅ)の劉勲(りゅうくん)と江夏太守(こうかたいしゅ)の黄祖(こうそ)の討伐を行う。
凱旋(がいせん)の途上で劉繇が病死したとの知らせが届くと、豫章へ立ち寄って平定。孫策の上表で孫賁が豫章太守の職務にあたることになり、後に都亭侯(とていこう)に封ぜられた。
208年、勅使の劉隠(りゅういん)が到着し、孫賁は詔(みことのり)をもって正式に征虜将軍に任ぜられ、豫章太守も兼ねることになった。
孫賁は官職にあること11年で死去し、息子の孫鄰が跡を継いだ。
管理人「かぶらがわ」より
孫賁の没年は、本伝の最後にある「官職にあること11年で死去」から想定したもので、イマイチはっきりしません。
また、200年に孫策が急死して孫権(そんけん)が跡を継いだわけですが、そのあたりからの事績にはまったく触れられていません。
孫賁の没年は218年ごろと考えられるので、190年代の活躍ぶりに比べると不思議な描かれ方になっています。
コメント ※下部にある「コメントを書き込む」ボタンをクリック(タップ)していただくと入力フォームが開きます