来敏(らいびん) ※あざなは敬達(けいたつ)

【姓名】 来敏(らいびん) 【あざな】 敬達(けいたつ)

【原籍】 義陽郡(ぎようぐん)新野県(しんやけん)

【生没】 ?~?年(97歳)

【吉川】 第278話で初登場。
【演義】 第091回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・来敏伝』あり。

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学識と人格の高さは別物

父は来豔(らいえん)だが、母は不詳。来忠(らいちゅう)という息子がいた。

来敏は後漢(ごかん)の来歙(らいきゅう)の後裔(こうえい)で、後漢末の大乱の折、姉に付き従って荊州(けいしゅう)へ避難した。

姉の夫である黄琬(こうえん)が、劉璋(りゅうしょう)の祖母の甥にあたったため、劉璋は黄琬の妻に迎えを遣る。このとき来敏も姉とともに蜀へ入り、賓客の待遇を受けた。

来敏は書物を読みあさり、『左氏春秋(さししゅんじゅう)』をよくする。特に『三倉(さんそう)』や『広雅(こうが)』の訓詁学(くんこがく)に精通し、文字の校正を好んだという。

214年、劉備(りゅうび)が成都(せいと)で劉璋を降すと、来敏は典学校尉(てんがくこうい)に任ぜられる。

219年、劉禅(りゅうぜん)が王太子に立てられると、来敏は太子家令(たいしかれい)に転じた。

ここでは「劉備が(劉禅を)太子に立てるに及び……」とだけあり、219年に劉禅が王太子に立てられたときのことなのか、221年に皇太子に立てられたときのことなのか、イマイチはっきりしなかった。

223年、劉禅が帝位を継ぐと、来敏は虎賁中郎将(こほんちゅうろうしょう)に任ぜられた。

227年、丞相(じょうしょう)の諸葛亮(しょかつりょう)が北伐のため漢中(かんちゅう)に進駐した際、来敏は軍祭酒(ぐんさいしゅ)・輔軍将軍(ほぐんしょうぐん)となって随行するも、ある事件に関わって辞職した。

234年、諸葛亮が死去した後、来敏は成都へ召し還されて大長秋(だいちょうしゅう)に任ぜられたが、またも免職となる。

後に再起用されて光禄大夫(こうろくたいふ)まで昇ったものの、過失によりみたび退けられた。

その後、改めて執慎将軍(しっしんしょうぐん)に任ぜられたが、この称号には来敏に官位の重さを自覚させ、自戒の気持ちを抱かせたいとの思いが込められていたという。

来敏は景耀(けいよう)年間(258~263年)に97歳で死去した。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると、たびたび来敏が免職や降格の処分を受けたのは、彼の言葉に節度がなく、普通の人とは挙動が異なっていたからだという。

それでも来敏が名家の出身で、劉禅が東宮(とうぐう)にいたころの臣下でもあったため、免職となっても再起用されたのだとか。

学識の高さと人格の高さは、必ずしも比例しないものなのですね。

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