孫河(そんか)

【姓名】 孫河(そんか) 【あざな】 伯海(はくかい)

【原籍】 呉郡(ごぐん)

【生没】 ?~204年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第082回で初登場。
【正史】 登場人物。

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孫韶(そんしょう)の伯父

父母ともに不詳。孫韶は甥にあたる。孫助(そんじょ)・孫誼(そんぎ)・孫桓(そんかん)・孫俊(そんしゅん)という4人の息子がいた。

『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫韶伝)によると「孫河はもともと愈姓(ゆせい。愈河)で、孫氏と同じく呉郡の人だった。孫策(そんさく)は愈河を寵愛し、孫姓を与えて一族の籍に加えた」という。

その一方、同じく「孫韶伝」の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く韋昭(いしょう。韋曜〈いよう〉)の『呉書』によると、「孫河は孫堅(そんけん)の族子(おい。同族内で子の世代にあたる者)であり、姑(おば)の愈氏の養子となったが、のちに孫姓に戻った」という。

孫河は実直な性格で、議論より行動を重視し、積極的な働きをもって職務に尽力した。若いころから孫堅に付き従い、常に先鋒を務めた。やがて孫堅の近衛兵を指揮するなど、腹心として信任されるようになった。

192年(191年とも)に孫堅が亡くなると、跡を継いだ孫策の下でも、196年の呉郡と会稽郡(かいけいぐん)の平定に活躍。

200年に孫策が急死すると、やはり跡を継いだ孫権(そんけん)の下でも廬江太守(ろこうたいしゅ)の李術(りじゅつ)の討伐に従軍し、李術を討ち破ったあとは威寇中郎将(いこうちゅうろうしょう)に任ぜられ、廬江太守を務めた。

その後、204年に孫翊(そんよく)が側近の辺鴻(へんこう。辺洪)に殺害されるという事件が起こると、丹楊郡(たんようぐん)の宛陵(えんりょう)に駆けつけた。

孫河は、孫翊から軍の指揮を任せられていた嬀覧(きらん)と郡丞(ぐんじょう)の戴員(たいうん)を職務怠慢だと責めた。

嬀覧と戴員は、孫翊と疎遠だったはずの孫河に強く責められたため、もし孫権が来るようなことになれば自分たちの一族は根絶やしにされるだろうと不安を募らせた。

こうしてふたりは孫河を殺害し、曹操(そうそう)配下の揚州刺史(ようしゅうしし)の劉馥(りゅうふく)に丹楊郡を挙げての内応を申し入れる。

しかしこの計略が実行される前に、孫翊の帳下(ちょうか。旗本)だった徐元(じょげん)・孫高(そんこう)・傅嬰(ふえい)らが嬀覧と戴員を誅殺した。孫河の死後、甥の孫韶が残された軍勢を取りまとめ、京城(けいじょう)を補修して敵の侵攻に備えた。

管理人「かぶらがわ」より

孫河が、もともと愈姓だったのかどうかについては謎が残りました。

「孫韶伝」にある、孫河が孫策から孫姓を賜ったという話より、韋昭(韋曜)の『呉書』にある、孫河は姑の愈氏の養子になっていた時期があって、のちに孫姓に戻ったという話のほうが説得力があるような気がします。

もし孫河が孫策から孫姓を賜ったのなら、彼の4人の息子たちが孫姓を名乗るのはわかりますけど、甥の孫韶まで孫姓になるのはおかしくないですか? このあたり、孫韶の父(つまり孫河の弟)がまったく登場していないのでイマイチわかりにくいです。

孫河が嬀覧と戴員に殺害されたあと、なぜ息子ではなく、甥の孫韶が軍勢を取りまとめたのかも引っかかります。これは、そのとき17歳だったという孫韶より、孫河の息子たちがさらに年少だったということなのでしょうか?

『三国志』(呉書・孫桓伝)の裴松之注に引く韋昭(韋曜)の『呉書』には、孫河の長男の孫助と次男の孫誼のふたりは早くに亡くなったとありました。

続く三男の孫桓には独立した伝があり、その生年が198年だったこともわかります。204年の時点で孫桓は7歳ですから、これだと17歳の孫韶が引き継いだほうがいいですね。

ただ、孫助は曲阿県長(きょくあけんのちょう)、孫誼は海塩県長(かいえんけんのちょう)だったともあるので、孫桓との年齢差がどうだったのかなど、どうもすっきりしません。

また『三国志』(呉書・吾粲伝〈ごさんでん〉)には、孫河が烏程県長(うていけんのちょう)を務めていたとき、その下役だった吾粲の非凡さを高く評価した話が載せられていました。彼は人を見る目もあったらしい。

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人物データ 呉の孫氏
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今日も三国志日和 – 史実と創作からみる三国志の世界 –

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