【姓名】 王氏(おうし) ※名とあざなは不詳
【原籍】 琅邪郡(ろうやぐん)
【生没】 ?~?年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 第108回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫権王夫人伝(そんけんおうふじんでん)』あり。
呉(ご)の孫権の側室、大懿皇后(たいいこうごう)
父は王盧九(おうろきゅう)だが、母は不詳。孫権との間に孫和(そんか)を儲けた。
王氏は孫権の後宮に迎えられると寵愛を受け、224年に孫和を生んだ。孫権の寵愛は歩氏(ほし)に次ぐものだったという。
238年に歩氏が亡くなり、241年に皇太子の孫登(そんとう)が亡くなると、翌242年には孫和が皇太子に立てられた。
孫権は王氏を皇后に立てようとしたが、それを全公主(ぜんこうしゅ。孫魯班〈そんろはん〉)が阻んだ。
孫権の娘(生母は歩氏)である全公主は、日ごろから王氏を憎んでおり、孫権に彼女の悪口を吹き込んでいた。
孫権が重い病にかかったとき、全公主は孫権に「王氏がうれしそうな顔をしている」と告げた。
これを真に受けた孫権はひどくあたるようになり、やがて王氏は憂死してしまった。
その後、264年に孫和の息子の孫晧(そんこう)が帝位に即いた。
孫晧は、祖母にあたる王氏を大懿皇后と追尊したうえ、王氏の3人の弟を列侯(れっこう)に封じた。
管理人「かぶらがわ」より
登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。
孫権にはふたりの王夫人がいて、伝名も同じ「孫権王夫人伝」なのですが、孫和を生んだこの王氏は琅邪の人、孫休(そんきゅう)を生んだ王氏は南陽(なんよう)の人です。
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