向充(しょうじゅう)

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【姓名】 向充(しょうじゅう) 【あざな】 ?

【原籍】 襄陽郡(じょうようぐん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

諸葛亮(しょかつりょう)の霊廟(れいびょう)建立について上奏

父母ともに不詳。向朗(しょうろう)は叔父。向寵(しょうちょう)は兄。

234年に諸葛亮が陣没すると、蜀(しょく)の各地で霊廟を建立したいとの声が上がったものの、朝廷は礼の規定を理由に許可しなかった。そのため民は季節の祭りにかこつけ、勝手に祭祀(さいし)を執り行うようになる。

中書郎(ちゅうしょろう)の向充は歩兵校尉(ほへいこうい)の習隆(しゅうりゅう)らと共同で上奏し、諸葛亮の墓所近くに霊廟を建てるべきだと主張した。

のち向充は「射声校尉(しゃせいこうい)」や「尚書(しょうしょ)」を歴任する。

263年になってようやく劉禅(りゅうぜん)の詔(みことのり)が下り、沔陽(べんよう)に諸葛亮の霊廟が建立された。

この年、劉禅が魏(ぎ)のトウ艾(とうがい。登+阝)に降伏し、蜀は滅亡。

翌264年、向充は魏の「梓潼太守(しとうのたいしゅ)」となる。

翌265年、魏の曹奐(そうかん)の禅譲を受け、晋(しん)の司馬炎(しばえん)が帝位に即いたが、その後の向充については記事がない。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は、『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・諸葛亮伝)とその裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く習鑿歯(しゅうさくし)の『襄陽記(じょうようき)』および『三国志』(蜀書・向朗伝)に付された「向寵伝」とその裴松之注に引く『襄陽記』によるものです。

登場箇所が少ないためコメントしにくいうえ、具体的な事績についての記事もほとんどなく、どのような人物だったのかはよくわかりませんでした。

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