孫峻(そんしゅん)

【姓名】 孫峻(そんしゅん) 【あざな】 子遠(しえん)

【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん)

【生没】 219~256年(38歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第108回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫峻伝』あり。

孫恭(そんきょう)の息子。孫静(そんせい)の曾孫にあたる

父は孫恭だが、母は不詳。全尚(ぜんしょう)に嫁いだ姉がいた。

孫峻は若いころより弓術や馬術に巧みで、優れた決断力を持っていた。孫権(そんけん)の末年に「武衛都尉(ぶえいとい)」から「侍中(じちゅう)」となった。

252年、孫権の臨終の際、諸葛恪(しょかつかく)・孫弘(そんこう)・滕胤(とういん)とともに後事を託され、「武衛将軍(ぶえいしょうぐん)」を兼任したうえ、これまで通り宮中における宿衛を統括し「都郷侯(ときょうこう)」に封ぜられた。

翌253年10月、孫亮(そんりょう)と相談したうえ諸葛恪を誅殺すると、「丞相(じょうしょう)・大将軍(だいしょうぐん)」に昇進し中央と地方の軍務を総括。「仮節(かせつ)」を授かり「富春侯」に爵位が進んだ。

その後、孫峻は驕(おご)り高ぶり多くの者を処刑したため、人々の非難を集めるようになった。孫峻は宮女たちに乱暴し、孫権の娘の魯班(ろはん。孫魯班。全公主〈ぜんこうしゅ〉)と密通した。

翌254年、呉侯の孫英(そんえい)による孫峻の殺害計画が発覚すると、孫英を自殺に追い込んだ。

翌255年、魏(ぎ)の毌丘倹(かんきゅうけん)と文欽(ぶんきん)が離反し、楽嘉(らくか)で魏軍と戦う。孫峻は驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)の呂拠(りょきょ)と左将軍(さしょうぐん)の留賛(りゅうさん)をひきい、魏軍を牽制(けんせい)すべく寿春(じゅしゅん)を攻撃。ところが、ほどなく文欽が魏軍に敗れ呉に投降してきたため、孫峻も寿春から軍勢を引き揚げた。

またこの年、蜀(しょく)の使者が呉にやってきた。呉の将軍の孫儀(そんぎ)・張怡(ちょうい)・林恂(りんじゅん)らは、使者との会見の席上で孫峻を殺害しようと企てた。

しかし、その計画が漏れ孫儀は自殺、林恂らは処刑された。これに連座して処刑された者が数十人も出たが、この中には孫権の娘で魯班の妹でもある魯育(ろいく。孫魯育。朱公主〈しゅこうしゅ〉)も含まれていた。

さらにこの年、孫峻は魏の広陵(こうりょう)に城を築こうとした。群臣は難しいと感じたものの、孫峻を恐れて誰も反対の意見を述べなかった。このとき滕胤だけは諫言したが、孫峻は聞き入れようとしない。結局、城が完成することはなかった。

翌256年、文欽の進言を容れて魏への遠征を決行。文欽と驃騎将軍の呂拠、車騎将軍(しゃきしょうぐん)の劉纂(りゅうさん)、鎮南将軍(ちんなんしょうぐん)の朱異(しゅい)、前将軍(ぜんしょうぐん)の唐咨(とうし)を江都(こうと)から淮水(わいすい)・泗水(しすい)流域へと進ませ、青州(せいしゅう)と徐州(じょしゅう)の攻略をもくろむ。

孫峻は、滕胤とともに石頭(せきとう)まで出て遠征軍を見送る宴を設け、100人ほどの従者を連れ呂拠の軍営へ行った。呂拠が配下の軍勢を乱れなく統率している様子を見て、かえって孫峻は警戒心を起こし、胸が苦しいと言い引き揚げた。

それからまもなく、孫峻は3年前に殺害した諸葛恪に殴られる夢を見て、恐れのあまり病気になり亡くなった。このとき38歳。後事は従弟の孫綝(そんりん)に託した。

管理人「かぶらがわ」より

孫峻は大きな権力を手にして地が出てしまったようです。事跡に悪行が目立ち、彼を誅殺しようという動きが何度もありました。

孫峻と孫綝のふたりの伝は、曾祖父の孫静らが収録されている「宗室伝(そうしつでん)」ではなく、「呉書」の後ろのほうに諸葛恪らと一緒に収録されています。まぁ陳寿(ちんじゅ)のこの扱いは当然でしょうね。

また、後事を託した従弟の孫綝は、258年12月に孫休(そんきゅう)によって誅殺されることになります。

『三国志』(呉書・孫綝伝)によると、「孫綝の一族が皆殺しとなったあと、孫休は孫峻の柩(ひつぎ)を発(あば)かせ、副葬されていた印綬(いんじゅ)を取り上げ、柩の木材を削ってから埋め戻した」ということです。これは、孫峻が魯育らを殺害したことに対する報復だったのだと。

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