呉氏(ごし)C ※孫堅(そんけん)の妻、武烈皇后(ぶれつこうごう)

【姓名】 呉氏(ごし) ※名とあざなは不詳

【原籍】 呉郡(ごぐん)呉県(ごけん)

【生没】 ?~202年?(?歳)

【吉川】 第033話で初登場。
【演義】 第007回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫堅呉夫人伝(そんけんごふじんでん)』あり。

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孫堅の正室、武烈皇后(ぶれつこうごう)

父母ともに不詳。呉景(ごけい)は弟。

孫堅との間に、孫策(そんさく)・孫権(そんけん)・孫翊(そんよく)・孫匡(そんきょう)という4人の息子と、蜀(しょく)の劉備(りゅうび)に嫁ぐことになる娘の孫氏を儲けた。

呉氏は早くに両親を亡くし、弟の呉景と暮らしていたが、彼女が才色兼備であることを聞きつけた孫堅から婚姻の申し入れを受けた。

しかし、親戚たちは孫堅の人となりを嫌い、この話を断ろうとした。孫堅はひどく侮辱されたと感じて恨みを抱く。

だが呉氏は、わざわざ一族に災いを招いてはならないと親戚を説得し、孫堅に嫁いだ。

192年(もしくは191年)に夫の孫堅を亡くし、200年に息子の孫策も亡くすと、19歳の若さで跡を継いだ孫権に対し、軍事と行政の両面にわたる助言を行ったという。

呉氏は202年に亡くなったが、死に際して張昭(ちょうしょう)らを招き、後事を託した。死後は高陵(こうりょう。孫堅の陵)に合葬された。

229年4月に息子の孫権が呉の帝位に即くと、武烈皇后と追尊された。

管理人「かぶらがわ」より

呉氏の没年については、本伝および『三国志』(呉書・呉主伝〈ごしゅでん〉)とも建安(けんあん)7(202)年としています。

ですが、本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く虞喜(ぐき)の『志林(しりん)』によると、「会稽郡(かいけいぐん)の貢挙簿(こうきょぼ。有能な人物を朝廷に推挙した際の名簿)を見ると、建安12(207)年から建安13(208)年までは推挙された者がおらず、『府君(ふくん。太守〈たいしゅ〉)が喪に服した』と書かれている」ということです。

ここから考えると「呉氏は建安7年ではなく、建安12年に亡くなったのであろう」と。また「建安8(203)年と建安9(204)年には貢挙があったため、建安7年に呉氏が亡くなった可能性のないことは明白だ」とも。

裴松之がよく調べたなという感じですけど、本伝だけではなく「呉主伝」にも同じことが書かれていますし、これだけでは判断がつきません。

同じ本伝の裴松之注に引く虞預(ぐよ)の『会稽典録(かいけいてんろく)』によると、「功曹(こうそう)を務めていた魏滕(ぎとう)が、孫策の考えに逆らって処刑されそうになったときのこと、話を聞いた呉氏が、大きな井戸の縁に身を寄せかけて孫策を説得し、魏滕を釈放させた」のだそう。

才色兼備の評判通り、機転が利く女性だったみたいですね。

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