孫謙(そんけん)A ※孫和(そんか)の息子

【姓名】 孫謙(そんけん) 【あざな】 ?

【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん)

【生没】 ?~266年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

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孫和(そんか)の息子

父は孫和だが、母は不詳。孫晧(そんこう)と孫徳(そんとく)は兄で、孫俊(そんしゅん)は弟。

孫謙は258年10月に永安侯(えいあんこう)に封ぜられた。

266年10月、永安の山賊の施但(したん)らが数千の徒党を集めて反乱を起こし、孫謙を脅して自分たちの頭領に立てた。

施但は孫謙とともに烏程(うてい)へ進み、孫和の陵から楽器や曲蓋(きょくがい。柄の曲がった貴人用の傘)を奪った。さらに建業(けんぎょう)まで進んだが、このころ徒党は1万余に増えていた。

丁固(ていこ)と諸葛靚(しょかつせい)が迎撃に出てきたため、牛屯(ぎゅうとん)で激しく戦い施但らは敗走。取り残された孫謙は保護されたものの、ほどなく自殺した。

管理人「かぶらがわ」より

登場箇所が少ないためコメントしにくいです。

『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫和伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く胡沖(こちゅう)の『呉歴(ごれき)』にも、施但が起こした反乱についての記事がありました。

「孫晧が建業を離れて武昌(ぶしょう)にいたとき、施但は民が孫晧の統治に苦しんでいることに乗じて1万余の人々を集め、孫謙を強迫し自分たちの陣営に引き込んだ。施但は孫謙を連れて秣陵(ばつりょう。建業)まで進み、孫晧の代わりに彼を帝位に即けようと企てた」

「こうして秣陵の手前30里(り)に留まると、施但は吉日を選んで使者を立て、丁固と諸葛靚に孫謙の詔(みことのり)を伝えさせた。しかし、諸葛靚はその場で使者を斬った」

「施但は九里(きゅうり。地名)まで進んだが、丁固と諸葛靚が軍勢を出して迎撃にあたり、これを大破した。施但の兵はみな裸で鎧を着けておらず、いざ戦いとなると、みなバラバラに逃げ去ってしまったのだった」

「孫謙は侍者もなく、ひとりで馬車の中に座っていたところを捕らえられた。丁固は孫謙を殺すのを憚(はばか)り、このことを孫晧に報告した。すると孫晧は孫謙を毒殺し、その母や息子も殺害させた」というもの。

孫謙は孫晧の異母弟ということなので、その生母は孫晧の母である何氏(かし)以外の側室のようです。正室だった張氏(ちょうし)は、孫和が自殺した253年に殉死しています。

この『呉歴』の記事には「孫謙の弟の孫俊は、張承(ちょうしょう)の外孫(がいそん。娘の子)にあたる」ともあるので、孫俊のほうは張氏が生んだ子らしい。

となると、弟とはいえ正室の子だった孫俊が、なぜ孫和の跡継ぎではないのか気になりますけど、そのあたりは兄弟を養育した何氏の影響なのでしょうか? また、孫晧が殺害を命じたという孫謙の母の姓名や、息子の名は出てきませんでした。

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