朱桓(しゅかん) ※あざなは休穆(きゅうぼく)

【姓名】 朱桓(しゅかん) 【あざな】 休穆(きゅうぼく)

【原籍】 呉郡(ごぐん)呉県(ごけん)

【生没】 178~239年(62歳)

【吉川】 第135話で初登場。
【演義】 第038回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・朱桓伝』あり。

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思いやりと狂気が同居した天才肌の将軍

父母ともに不詳。息子の朱異(しゅい)は跡継ぎ。

200年?、孫権(そんけん)が討虜将軍(とうりょしょうぐん)になると、朱桓はその将軍府で働き、やがて余姚県長(よようけんちょう)に任ぜられる。

余姚県に赴任したところ疫病が流行しており、飢饉(ききん)による穀物や食料の高騰も起きていた。

朱桓は有能な部下を選んで指示を与え、医薬品を手配したり、炊き出しをさせたりしたので士人も民も感激し、よく彼の命令に従ったという。

朱桓は盪寇校尉(とうこうこうい)に昇進して兵2千人を授けられ、呉と会稽(かいけい)の両郡で軍の編制を命ぜられる。かの地でバラバラになっていた兵を集め、1年ほどの間に1万余人をまとめ上げた。

その後、丹楊(たんよう)や鄱陽(はよう)の山越(さんえつ。江南〈こうなん〉に住んでいた異民族)の不服従民が蜂起して各地の城を攻め落とし、長官を殺したり捕らえたりする。朱桓は諸将を指揮して討伐に向かい、すべて平定した。

ほどなく朱桓は裨将軍(ひしょうぐん)に昇進し、新城亭侯(しんじょうていこう)に封ぜられた。後に周泰(しゅうたい)の跡を引き継ぎ、濡須督(じゅしゅとく)となる。

222年、魏(ぎ)の大司馬(だいしば)の曹仁(そうじん)が、歩騎数万をひきいて濡須へ攻め寄せた。このとき曹仁は濡須の中州を奪おうと考えており、呉軍を欺くため、東へ進んで羨渓(せんけい)を攻めると宣伝させた。

そこで朱桓は軍勢を分けて羨渓に向かわせたが、その部隊が出発した後、曹仁の軍勢が(羨渓ではなく、)濡須から70里の地点まで迫っていることを知らされる。

すぐに使者を遣って部隊を呼び戻そうとしたものの、彼らが戻ってくる前に曹仁軍が到着してしまう。朱桓のもとには5千ほどの兵しかおらず、部将たちも恐れおののいた。

しかし朱桓は彼らを諭し、自軍が有利な状況にあることを説き聞かせる。そして、あえて軍旗を立てず、太鼓も打ち鳴らさず、自軍を弱そうに見せかけて曹仁を誘い込む。

翌223年、曹仁は息子の曹泰(そうたい)に濡須城への攻撃を命じたうえ、将軍の常雕(じょうちょう)を別動部隊とし、諸葛虔(しょかつけん)や王双(おうそう)らとともに中州を攻めさせた。

さらに曹仁自身は1万の兵をひきいて橐皋(たくこう)に留まり、曹泰らの後方を固めた。

朱桓は部将たちに敵の油船(ゆせん。油を塗った皮をかぶせた船)を拿捕(だほ)させ、別に常雕らへの攻撃を命ずる。朱桓自身は曹泰と対峙(たいじ)し、敵の軍営を焼き打ちして引き揚げた。

呉軍は常雕を討ち取り、生け捕った王双は武昌(ぶしょう)へ送る。一連の戦闘で魏軍の戦死者や溺死者は1千余人にも上ったという。

孫権は朱桓の功を嘉(よみ)し、奮武将軍(ふんぶしょうぐん)・彭城国相(ほうじょうこくしょう)に任じて嘉興侯(かこうこう)に爵位を進めた。

228年、鄱陽太守(はようたいしゅ)の周魴(しゅうほう)が魏への偽降を計り、魏の大司馬の曹休(そうきゅう)をおびき寄せようとする。

この計略にはまった曹休は、歩騎10万をひきいて皖城(かんじょう)まで進み、周魴を迎え取ろうとした。

そこで呉は陸遜(りくそん)が総指揮を執ったうえ、全琮(ぜんそう)と朱桓が左右の督となり、おのおの3万の軍勢をひきいて曹休を攻めた。

曹休はだまされたと知って引き揚げようとしたが、その前に一戦を交えようとする。

朱桓は陸遜に、曹休の退路となる夾石(きょうせき)と挂車(けいしゃ)を遮断したいと願い出たが、許可は得られなかった。

翌229年、朱桓は前将軍(ぜんしょうぐん)・青州牧(せいしゅうぼく)・仮節(かせつ)に任ぜられる。

237年、魏の廬江主簿(ろこうしゅぼ)の呂習(りょしゅう)が呉に内応を申し入れると、朱桓は衛将軍(えいしょうぐん)の全琮とともに軍勢をひきい、呂習を迎えに行く。

だが、廬江に到着したところで呂習の内応が計略とわかり、呉軍は引き揚げた。

廬江太守の李膺(りよう)は準備を整え、呉軍が城外の川を半ば渡ったときに追撃しようと考えたものの、朱桓が殿軍(しんがり)だと知ると、結局は兵を動かさなかった。

このとき全琮が督を務めており、孫権の特命を受けた偏将軍(へんしょうぐん)の胡綜(こそう)も作戦に参与していた。全琮は何の戦果も上げられなかったことから、部将たちに奇襲作戦を提案する。

朱桓は気位が高く、他人の指図を受けるのを恥と考えていたため、この提案を聞くや、全琮のところへ押しかけて言い争う。

全琮が、実は胡綜の発案なのだと弁解すると、怒った朱桓は胡綜を呼んでこさせる。

しかし朱桓の側近が気を回し、朱桓が胡綜を斬るつもりだと先に伝えたので、胡綜は難を免れた。

朱桓はこの側近を斬り殺したうえ、それを諫めた佐軍(さぐん。副官)まで刺殺する。さらに自分は気が狂ったと称し、建業(けんぎょう)に帰って治療を受けた。

孫権は朱桓の功績と能力を鑑みて罪に問わず、息子の朱異に父の代理を命ずる一方、朱桓のもとへ医者を遣わす。数か月後、朱桓は回復して濡須に戻った。

239年、朱桓は62歳で死去し、息子の朱異が跡を継ぐ。彼の家には余財がなかったので、孫権は塩50斛(こく)を下賜して葬儀の費用に充てさせたという。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると、朱桓は過ちを認めず、人の下に付くことを恥としており、戦場に臨んで思い通りに軍勢を動かせないようだと、いつも憤激していたそうです。

一方で財産を軽んじ、他人との付き合いを大切にするという一面も持ち合わせていました。

また朱桓は記憶力が抜群で、一度会った人を何十年も忘れず、自分の部曲(ぶきょく。私兵)1万人の妻子の顔まで覚えていたという。

そのうえ軍吏や兵士の面倒をよく見てやり、彼らの親類にも手厚く援助し、自分の俸禄や家財をみな分かち合ったので、朱桓が危篤になると軍営中が憂いに沈んだのだとか。

常人ばなれした記憶力と、親類や部下への手厚い配慮を見せた裏に潜む狂気。何か語られていない事情がありそうですね。

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