【姓名】 浩周(こうしゅう) 【あざな】 孔異(こうい)
【原籍】 上党郡(じょうとうぐん)
【生没】 ?~?年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。
孫権(そんけん)の真意を見抜けず、曹丕(そうひ)の信頼を失う
父母ともに不詳。
浩周は建安(けんあん)年間(196~220年)に蕭県令(しょうけんれい)となり、やがて徐州刺史(じょしゅうしし)に昇進した。
219年、浩周は于禁(うきん)の目付け役として従軍し、劉備(りゅうび)配下の関羽(かんう)に敗れて捕虜となる。
この年のうちに、今度は孫権が関羽を討ち破って処刑すると、捕虜となっていた于禁を始め、浩周や東里袞(とうりこん)らを解放し厚遇した。
翌220年2月、曹丕が魏王(ぎおう)を継ぐと、浩周は東里袞とともに魏へ帰る。
曹丕がふたりを引見した際、浩周は下問に答えて述べた。
「孫権は必ず臣従するでしょう」
だが、東里袞はこう述べた。
「孫権が臣従するとの保証はできかねます」
曹丕は浩周の言葉のほうを喜び、その判断にしかるべき根拠があるものと考える。
同年10月、曹丕が帝位に即くと、孫権を呉王(ごおう)に封ずる詔(みことのり)を伝える使者を遣わしたが、このとき浩周も随行した。
★曹丕が浩周らを呉へ遣わしたのは翌221年に入ってからだと思うが、以下の記事との時期的な兼ね合いがイマイチつかめず。
呉で孫権の私的な宴に招かれた際、浩周が言った。
「陛下は王(孫権)がご子息を入侍させるかお疑いでしたが、私は一門100人の命を懸け、そうされるだろうと保証いたしました」
孫権は涙ながらに謝意を表し、浩周の帰国時にも「天に誓って約束を守る」と言ってみせる。
しかし浩周らが帰国した後も、孫権は息子(孫登〈そんとう〉)を魏へ遣らず、言を左右にした。このため孫権の使者は、魏で長く拘留されてしまう。
222年8月、孫権は曹丕に上書して謝罪。別に浩周にも手紙を送り、自分の気持ちを述べる。
★ここは一応、222年8月のことだと見たが、221年8月と見るべきなのかよくわからなかった。
曹丕は孫権の言い分を信じ、浩周が彼の真心を感じたものとも考えた。ところが孫権は言い繕うだけで、息子を魏へ遣る気などまったくなかった。
そのうち曹丕も孫権の真意がわかると、浩周は遠ざけられ、二度と用いられることはなかったという。
管理人「かぶらがわ」より
上で挙げた記事は『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉)とその裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』によるもの。
浩周は関羽の捕虜となったものの処刑を免れ、ほどなくその関羽も敗れたことで、孫権との奇縁が生まれました。
孫権に厚遇された影響はあると思いますけど、浩周は孫権の真意を見抜けなかったことで、曹丕の信頼と自身の前途を失ってしまいましたね。
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