陳表(ちんぴょう) ※あざなは文奥(ぶんおう)

【姓名】 陳表(ちんぴょう) 【あざな】 文奥(ぶんおう)

【原籍】 廬江郡(ろこうぐん)松滋県(しょうじけん)

【生没】 ?~?年(34歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・陳武伝(ちんぶでん)』に付された「陳表伝」あり。

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孫登(そんとう)との縁が深かった陳武の息子

父は陳武だが、母は不詳。陳脩(ちんしゅう)は異母兄。息子の陳敖(ちんごう)は跡継ぎ。

陳表は若くして名を知られ、221年、諸葛恪(しょかつかく)・顧譚(こたん)・張休(ちょうきゅう)らとともに王太子の孫登の僚友(りょうゆう。太子の友人として出仕する者)に選ばれる。彼らは互いに親しく付き合い、「太子四友」と称された。

陳表は尚書(しょうしょ)の曁豔(きえん)とも親しかったが、後に曁豔が罪を得ると、付き合いのあった者はみな保身のために彼を非難した。

しかし、陳表だけはそうした態度を取らなかったので、士人から評価されたという。

229年、陳表は、太子中庶子(たいしちゅうしょし)から翼正都尉(よくせいとい)に転ずる。

翌230年、異母兄の陳脩が死去すると、父の側室だった陳表の母は、父の正室だった陳脩の母の言いつけを聞かなくなった。

陳表は亡兄に代わって家中を取りまとめ、正室だった母君にお仕えせねばならないと説き、生母との確執を解消する。

さらに陳表は父が戦死していたことから、部将になりたいと願い出て500の兵士を授かった。彼は配下の兵士への配慮を欠かさなかったため、みな心を寄せ、よく命令に従ったという。

215年、父の陳武は、孫権(そんけん)の合肥(ごうひ)遠征において戦死した。

後に陳表は無難右部督(ぶなんゆうぶとく)に昇進し、都亭侯(とていこう)に封ぜられる。このとき封爵を辞退し、亡兄の息子である陳延(ちんえん)に爵位を継がせたいと請うたものの、孫権は許可しなかった。

234年、丹楊太守(たんようたいしゅ)の諸葛恪が山越(さんえつ。江南〈こうなん〉に住んでいた異民族)討伐にあたると、陳表は新安都尉(しんあんとい)として助勢。3年の間に不服従民を帰順させることに努め、1万余の兵士を得る。

237年、平定を終えて任地を離れようとしたとき、鄱陽(はよう)の呉遽(ごきょ)らが反乱を起こし、郡城を攻め落とす。陳表は速やかに郡境を越えて討伐軍を進め、呉遽を降した。

陳表は陸遜(りくそん)の推挙により偏将軍(へんしょうぐん)に任ぜられ、都郷侯(ときょうこう)に爵位が進み、北方の章阬(しょうこう)に駐屯する。

その後、陳表は34歳で死去(時期は不明)し、息子の陳敖が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると、陳表は配下の兵士のために家財を使い果たし、彼の死後、妻子が路頭に迷うほどだったといいます。この様子を見かねた皇太子の孫登が、遺族に住まいを世話したのだとか。

陳表の没年はイマイチはっきりしませんが、孫登が241年に薨去(こうきょ)していること、また『三国志』(呉書・呉主伝〈ごしゅでん〉)の239年の記事に関して、その裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『文士伝(ぶんしでん)』に陳表の名が見えていることから、239~241年に亡くなったものと思われます。

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