【姓名】 曹昂(そうこう) 【あざな】 子脩(ししゅう)
【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん)
【生没】 ?~197年(?歳)
【吉川】 第064話で初登場。
【演義】 第016回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・豊愍王昂伝(ほうびんおうこうでん)』あり。
魏(ぎ)の曹操(そうそう)の息子で曹丕(そうひ)の異母兄、豊愍王
父は曹操、母は劉氏(りゅうし。劉夫人〈りゅうふじん〉)。
同母弟には曹鑠(そうしゃく)がおり、曹氏(清河長公主〈せいかちょうこうしゅ〉)も同母姉妹。
曹昂は劉氏が早くに亡くなったため、曹操の最初の妻である丁氏(ていし)に養育され、20歳で孝廉(こうれん)に推挙された。
197年、曹操の張繡(ちょうしゅう)討伐に付き従って戦死したが、息子はいなかった。
221年、豊悼公(ほうとうこう)の諡号(しごう)を追贈された。
翌222年、樊安公(はんあんこう)の曹均(そうきん)の息子である曹琬(そうえん)が跡を継ぎ、中都公(ちゅうとこう)に封ぜられた。曹琬は同年に長子公(ちょうしこう)に移封された。
その後、224年には豊悼王(ほうとうおう)、229年には豊愍王と、それぞれ諡号が改められた。
254年、曹琬が曹昂の爵位を継ぎ、豊王に封ぜられた。
管理人「かぶらがわ」より
『三国志』(魏書・武帝紀〈ぶていぎ〉)と裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く王沈(おうしん)の『魏書』や郭頒(かくはん)の『世語(せいご。魏晋世語〈ぎしんせいご〉)』には、以下のようにあります。
「197年、張繡は宛(えん)で曹操に降伏したが、それを後悔して再び背いた。曹操は張繡と戦ったものの敗れ、流れ矢に当たって負傷した。この際、息子の曹昂と甥の曹安民(そうあんみん)が戦死した」とあり、これは「武帝紀」の記事。
「このとき曹操は『絶影(ぜつえい)』という名の馬に乗っていたが、流れ矢に当たって頰と足を負傷。また、別の矢が右肘にも当たった」ともあり、これは(王沈の)『魏書』の記事。
また「曹昂は馬に乗れなくなったため、曹操に自分の馬を譲った。おかげで曹操は逃れることができたが、曹昂は戦死してしまった」ともあり、これは『世語(魏晋世語)』の記事。
一方でよくわからなかったのが、以下の『三国志』(魏書・張繡伝)の記事。
「いったん背いた張繡だったが、200年に曹操が官渡(かんと)で袁紹(えんしょう)と対峙(たいじ)していたとき、配下の賈詡(かく)の計に従って再び降伏した」
「曹操は到着した張繡の手を取って喜び、歓迎の宴会を催した。さらに、張繡の娘を自分の息子である曹均の妻に迎え、張繡には揚武将軍(ようぶしょうぐん)の位を授けた」とあります。
197年に曹昂が戦死した後、222年になって曹均の息子の曹琬が曹昂の跡を継いだことは先に触れました。だとすると、曹琬は張氏(張繡の娘)の生んだ子の可能性もあるのでは?
曹昂戦死のきっかけになったのが張繡ですから、ここはちょっと引っかかりました。もちろん、曹均の張氏以外の妻が曹琬を生んだ可能性も大いにありますけど、何だか意味ありげですよね。
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