徐幹(じょかん) ※あざなは偉長(いちょう)、建安七子(けんあんのしちし)のひとり

【姓名】 徐幹(じょかん) 【あざな】 偉長(いちょう)

【原籍】 北海郡(ほっかいぐん)

【生没】 ?~217年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・王粲伝(おうさんでん)』に付された「徐幹伝」あり。

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曹丕(そうひ)に絶賛された文人、建安七子(けんあんのしちし)のひとり

父母ともに不詳。

徐幹は司空軍謀掾属(しくうぐんぼうえんぞく)を経て五官将文学(ごかんしょうぶんがく)となった。

曹操(そうそう)が司空を務めていた期間は196~208年。

曹丕が五官将(五官中郎将〈ごかんちゅうろうしょう〉)を務めていた期間は211~217年。

曹丕や平原侯(へいげんこう。211~214年)の曹植(そうしょく)が文学を愛好していたため、徐幹も王粲・陳琳(ちんりん)・阮瑀(げんう)・応瑒(おうちょう)・劉楨(りゅうてい)らとともに友人として親愛された。

217年、徐幹は疫病の大流行に遭って死去。この年には王粲・陳琳・応瑒・劉楨も相次いで亡くなった(阮瑀は212年没)。

管理人「かぶらがわ」より

登場箇所が少ないためコメントしにくいです。

本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『先賢行状(せんけんぎょうじょう)』によると――。

「徐幹は清潔かつもの静かな人柄で、道理を体得しており、(『周礼〈しゅらい〉』に挙げられる)6つの徳行(孝・友・睦・婣〈いん〉・任〈じん。信〉・恤〈じゅつ〉)を備えていた」

「そして聡明(そうめい)で広い知識を持ち、筆を執るなり文章を作り上げた。また、官職や俸禄を軽んじ、世間の栄誉には執着しなかった」という。

「建安年間(196~220年)、曹操は特に旌(はた。賢人を招く際、使者に持たせた旗)をもって徐幹を登用しようとしたが、病気のため沙汰やみとなった」

「後に上艾県長(じょうがいけんちょう)に任じようとしたが、またも病気のため就任しなかった」ともありました。

本伝の記事との兼ね合いがわかりにくいのですけど、こうしたやり取りを経て(196~208年の間に)司空軍謀掾属に就任したということらしい。

別に『三国志』(魏書・王粲伝)に付された「呉質伝(ごしつでん)」の裴松之注に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』には、曹丕が呉質に送った手紙の中で、徐幹らについて論評している記事がありました。

それによると「古今の文人たちはおおむね細かい作法を守らず、名誉や節操によって独り立ちできる者は少ない」としたうえ――。

「ところが偉長(徐幹のあざな)だけは教養と質朴さを備え、無欲恬淡(てんたん)。隠棲(いんせい)の志を抱いており、調和の取れた君子と言ってよいだろう」

「偉長は『中論(ちゅうろん)』20余編を著し独自の仕事を成したが、文辞と内容はともに典雅であり、後世に残すに足るものである」と述べています。

このあたりから、何となく徐幹の人柄がうかがえますね。

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