陶謙(とうけん) ※あざなは恭祖(きょうそ)

【姓名】 陶謙(とうけん) 【あざな】 恭祖(きょうそ)

【原籍】 丹楊郡(たんようぐん)

【生没】 132~194年(63歳)

【吉川】 第025話で初登場。
【演義】 第005回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・陶謙伝』あり。

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人格者のイメージは創作か?

父母ともに不詳。父はもと余姚県長(よようけんちょう)だったが、陶謙が幼いころに亡くなったという。陶商(とうしょう)と陶応(とうおう)というふたりの息子がいた。妻は同郷で、もと蒼梧太守(そうごたいしゅ)の甘公(かんこう)の娘。

陶謙は若いころから学問好きで、太学(たいがく)の学生となる。のち州郡に出仕し、孝廉(こうれん)や茂才(もさい)に推挙され、尚書郎(しょうしょろう)を経て舒県令(じょけんれい)や盧県令(ろけんれい)を務めた。

このころ西羌族(せいきょうぞく)が国境地帯を荒らしたため、皇甫嵩(こうほすう)が征西将軍(せいせいしょうぐん)として討伐にあたった。

皇甫嵩から部将の派遣を要請する上表があったため、陶謙が召し寄せられた。こうして陶謙は揚武都尉(ようぶとい)として従軍し、西羌族を散々に撃破した。

陶謙は幽州刺史(ゆうしゅうしし)に昇進した後、中央に召し還されて議郎(ぎろう)となった。

184年、徐州(じょしゅう)で黄巾賊(こうきんぞく)が蜂起すると、徐州刺史として起用され、黄巾賊を攻撃して敗走させた。

186年、辺章(へんしょう)と韓遂(かんすい)が反乱を起こすと、司空(しくう)の張温(ちょうおん)が討伐の命を受けた。

陶謙は要請を受けて参軍事(さんぐんじ)に就任し、張温から厚遇された。だが、陶謙は張温の指揮ぶりを軽蔑しており、内心では反感を抱いていた。

190年1月、反董卓(とうたく)連合軍が決起。

同年2月、献帝(けんてい)は董卓に長安(ちょうあん)への遷都を迫られ、四方との交通は途絶した。

このとき陶謙は使者を遣わして、間道づたいに貢ぎ物を献じたため、安東将軍(あんとうしょうぐん)・徐州牧(じょしゅうぼく)に昇進し、溧陽侯(りつようこう)に封ぜられた。

当時の徐州は比較的に裕福で、穀物の蓄えも十分だったので、居住地を離れて流浪する民の多くが身を寄せた。ところが陶謙は道義に背き、感情に任せて行動した。

広陵太守(こうりょうたいしゅ)の趙昱(ちょういく)は徐州の名士だったが、忠義で正直な人柄のために疎まれ、曹宏(そうこう)らは邪悪な小物だったにもかかわらず重用された。法と刑罰は均衡を失い、善良な人々がひどい目に遭わされて混乱が深まった。

192年、袁術(えんじゅつ)が公孫瓚(こうそんさん)に救援を要請。

これを受けて公孫瓚は、劉備(りゅうび)を高唐(こうとう)に、単経(ぜんけい)を平原(へいげん)に、陶謙を発干(はっかん)に、それぞれ駐屯させて袁紹(えんしょう)を圧迫した。

しかし、曹操(そうそう)が袁紹に協力して劉備らを攻め、すべて討ち破った。

翌193年6月、下邳(かひ)の闕宣(けつせん)が天子(てんし)を僭称(せんしょう)。

陶謙は闕宣と結び、泰山郡(たいざんぐん)の華県(かけん)と費県(ひけん)を奪う。さらに任城国(じんじょうこく)も攻略して略奪を働く。そして、後になり闕宣を殺害したうえ配下の軍勢を併せた。

このころ曹操の父の曹嵩(そうすう)が泰山郡にいたが、陶謙配下の部将に殺害される。このことから陶謙は曹操の深い恨みを買った。

同年秋、曹操が軍勢をひきいて徐州へ攻め寄せ、10余城が陥落。陶謙は彭城(ほうじょう)で敗れて逃走したが、このときの死者は万単位に上り、泗水(しすい)の流れがせき止められるほどだった。

陶謙が郯(たん)へ退いて守りを固めると、曹操も兵糧が乏しくなったため引き揚げた。

このとき、公孫瓚の配下で青州刺史(せいしゅうしし)の田楷(でんかい)に救援を求めたところ、彼は劉備とともに駆けつけた。陶謙は4千の兵を加えてやり、田楷のもとを離れた劉備を徐州へ迎えることにした。

翌194年、陶謙は、劉備を豫州刺史(よしゅうしし)とするよう上表し、小沛(しょうはい)に駐屯させる。

同年夏、曹操が、再び軍勢をひきいて徐州へ攻め寄せ、琅邪(ろうや)と東海(とうかい)の諸県が攻め落とされた。

曹操は東海からの帰路、郯の東で劉備に加え、陶謙配下の曹豹(そうほう)を撃破。さらに襄賁(じょうほん)も攻略し、曹操軍の通過した地域では多くの者が虐殺された。

陶謙はおじけづき、故郷の丹楊へ帰ろうと考える。たが、ちょうどこのころ、張邈(ちょうばく)が曹操に背いて呂布(りょふ)を迎え入れたため、曹操は兗州(えんしゅう)へ引き返さざるを得なくなった。

陶謙は病が重くなり、劉備に徐州を託すと、この年のうちに亡くなった。このとき63歳だった。

管理人「かぶらがわ」より

前の公孫瓚と同様、この陶謙の伝についても時間的な経過がつかみにくかったです。特に若いころの経歴は、記事が交錯していてわかりにくさがありました。

吉川『三国志』や『三国志演義』での陶謙は、良識を備えた温厚な人物として描かれていましたが、実際はそのような人格者ではなかったようです。

劉備に徐州を託したことは一定の評価ができそうですけど、陶謙のふたりの息子は仕官しなかったそうですし、たまたま劉備がいたからそうなっただけでは? とも思わせます。史実と創作とのギャップが大きく、どうもイメージしづらい人物です。

そう言えば陶謙も、范曄(はんよう)の『後漢書(ごかんじょ)』に伝が立てられていました。これは范曄が、陶謙を当時の重要人物のひとりとして認めていたということですよね。

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