国淵(こくえん)

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【姓名】 国淵(こくえん) 【あざな】 子尼(しじ)

【原籍】 楽安国(らくあんこく)蓋県(がいけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・国淵伝』あり。

ひとつの首級はあくまでひとつ。ひとりの捕虜はあくまでひとり

父母ともに不詳。国泰(こくたい)という息子がいた。

国淵は鄭玄(ていげん)の下で学んだ後、黄巾(こうきん)の乱を避け、邴原(へいげん)や管寧(かんねい)らとともに遼東(りょうとう)へ移る。のち旧地へ帰り、曹操(そうそう)から招かれて「司空掾属(しくうのえんぞく)」となった。

曹操が「司空」を務めていた期間は196~208年。

国淵は公の朝議の議論では厳正な態度で直言したが、退席後は個人的な感情を残さなかった。

曹操は屯田を広域に設置したいと考え、その事務を国淵に任せる。たびたび彼は意見を述べ、土地の適性を見極めて民を住まわせ、人口を計算して必要な数の官吏を置き、成績を評価するための規則を明確にした。こうして5年の間に倉庫は豊かに満ち、民は楽しんで仕事に努めるようになったという。

211年、曹操が関中(かんちゅう)の韓遂(かんすい)と馬超(ばちょう)を討伐した際、国淵は「居府長史(きょふちょうし)」として留守の諸事を統括。この間、田銀(でんぎん)と蘇伯(そはく)が河間(かかん)で反乱を起こすと、その鎮圧に功を上げる。

反乱に加わった者たちは当然、みな法により処断されることになっていた。しかし国淵は、首謀者でないから刑罰を加えないでほしいと願い出、曹操の許しを得る。おかげで命が助かった者が1千人以上もいた。

またこの当時、賊軍を撃破した際の公式文書では、1を10と(10倍に)計算するのが慣例になっていた。ところが国淵は、討ち取った首級の数を上奏するとき実数通りに記した。

曹操が理由を尋ねると国淵はこう答えた。

「そもそも賊を討ち、斬った首と捕虜の数を実際より多く報告いたしますのは、戦果を大きく見せて民に誇示したいからでございます。河間は領内の郡であり、田銀らは反乱を起こしただけなのです。このたび勝利を得たことで手柄があったと言われましても、私は心ひそかに恥だと考えております」

曹操はこれを聞き上機嫌になり、国淵は「魏郡太守(ぎぐんのたいしゅ)」に昇進した。

このころ投書で政治を批判する者がおり、憎らしく思った曹操は投書の主を知りたがる。国淵は問題の投書を保管し内密にしておくよう要請。その文面には「二京賦(にけいのふ)」が数多く引用されていた。

そこで国淵は功曹(こうそう。官名)に命じ、理解力に優れた3人の若者を選ばせる。そして彼らに事情を明かしたうえ、「二京賦」が読める者を探し、その者に就いて講義を受けるよう言った。

10日して読める者が見つかると、彼らは出かけていき講義を受けた。役人がその教師に頼んで文を書いてもらい、先の投書と比べると筆跡が同じだった。そこで逮捕して尋問したところ事実関係が判明する。

やがて国淵は「太僕(たいぼく)」に昇進。だが、彼は大臣の位に列しながらも粗衣粗食の暮らしを続け、俸禄や賜与は旧友や親族らに分け与えた。このように謙虚と節倹を信条として貫き、在職中に死去(時期は不明)した。

管理人「かぶらがわ」より

国淵の記事は政事が中心で、学識を備えた人格者というイメージでしたが、戦果を報告する際に実数の10倍を上奏するのが慣例だった、という記述には驚かされました。

兵力を多めに称してハッタリをかます、というのはよく見る手ですけど、戦果の報告までそういう形だと混乱が起こらなかったのでしょうか? ほかにも関連する記事がないか、探してみる必要がありそうです。

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