辛毗(しんぴ) ※あざなは佐治(さち)

【姓名】 辛毗(しんぴ) 【あざな】 佐治(さち)

【原籍】 潁川郡(えいせんぐん)陽翟県(ようてきけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 第118話で初登場。
【演義】 第032回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・辛毗伝』あり。

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袁氏(えんし)から曹氏(そうし)へ鞍(くら)替えして九卿(きゅうけい)に昇る、諡号(しごう)は粛侯(しゅくこう)

父母ともに不詳。辛評(しんぴょう)は兄。息子の辛敞(しんしょう)は跡継ぎ。娘の辛憲英(しんけんえい)は羊耽(ようたん)に嫁いだ。

辛毗の先祖は、後漢(ごかん)の光武帝(こうぶてい。在位25~57年)の建武(けんぶ)年間(25~56年)に隴西(ろうせい)から東方へ移住したという。

初め辛毗は、兄の辛評とともに袁紹(えんしょう)に仕えた。

196年、曹操(そうそう)が司空(しくう)になると辛毗を召し寄せたが、彼は応ずることができなかった。

200年、袁紹が官渡(かんと)で曹操に大敗する。

202年、袁紹が死去する。

翌203年、袁尚(えんしょう)が平原(へいげん)の袁譚(えんたん)を攻めた際、辛毗は袁譚の使者として遣わされ、曹操に救援を求める。

曹操は荊州(けいしゅう)討伐のため西平(せいへい)にいたが、辛毗から話を聞くと大いに喜ぶ。

だが数日後、曹操は先に荊州を平定しようと気が変わり、その間に袁譚と袁尚を戦わせ、両者を疲弊させたいと考える。

このとき辛毗は河北(かほく)の実情を説き、袁譚の救援要請を利用するよう勧めた。

納得した曹操は袁譚の申し入れを認め、黎陽(れいよう)へ向かう。

翌204年、鄴(ぎょう)が陥落すると、曹操は辛毗を議郎(ぎろう)に取り立てるよう上奏した。

217年、都護将軍(とごしょうぐん)の曹洪(そうこう)が下弁(かべん)に赴いた際、辛毗は曹休(そうきゅう)とともに従軍した。

翌218年、劉備軍(りゅうびぐん)を撃退して帰還し、丞相長史(じょうしょうちょうし)となる。

220年、曹丕(そうひ)が帝位に即くと、辛毗は侍中(じちゅう)に昇進し、関内侯(かんだいこう)に封ぜられた。

223年、上軍大将軍(じょうぐんだいしょうぐん)の曹真(そうしん)が江陵(こうりょう)にいる孫権(そんけん)配下の朱然(しゅぜん)を討伐した際、辛毗は軍師を務めた。帰還後、広平亭侯(こうへいていこう)に爵位が進む。

翌224年?、曹丕は呉(ご)の討伐を考えるが、辛毗は時節を待つよう諫めた。

曹丕は聞き入れずに親征に出たものの、長江(ちょうこう)まで行ったところで引き返した。

226年、曹叡(そうえい)が帝位を継ぐと、辛毗は潁郷侯(えいきょうこう)に爵位が進み、300戸の封邑(ほうゆう)を賜る。

このころ中書監(ちゅうしょかん)の劉放(りゅうほう)と中書令(ちゅうしょれい)の孫資(そんし)が政治を裁断し、ふたりと誼(よしみ)を通じない大臣はいなかったが、辛毗は交際しなかった。

息子の辛敞は俗世に妥協(してふたりと交際)するよう勧めたが、辛毗は節義を保ち、考えを変えなかった。

冗従僕射(じょうじゅうぼくや)の畢軌(ひっき)が上奏し、尚書僕射の王思(おうし)を辛毗と代えるよう勧める。

曹叡が劉放と孫資に相談したところ、ふたりは辛毗の誠実さを評価しつつも、彼が強情で妥協しない点を問題視する。

こうして辛毗は尚書僕射に起用されず、衛尉(えいい)に任ぜられた。

宮殿造営の労役で民が疲弊すると、辛毗は上奏文を奉って諫めた。

曹叡は返書の中で直言に一定の理解を示しつつも、前漢の蕭何(しょうか)の例を持ち出し、都には後で手直しの必要がない宮殿を建てなくてはならないとして、魏の重臣である辛毗には、この大いなる意図をわかってほしいと述べた。

さらに曹叡は、北芒山(ほくぼうざん)を平らにならして高殿を造り、孟津(もうしん)を眺めたいと考える。

だが、この計画は辛毗の諫言が効いて取りやめとなった。

234年4月、蜀(しょく)の諸葛亮(しょかつりょう)が軍勢をひきい、渭南(いなん)へ侵出してくる。

それ以前、大将軍の司馬懿(しばい)は諸葛亮と戦いたいと繰り返し願い出ていたが、あくまで曹叡は認めなかった。

ところが、今回は非戦の方針を守り通せない懸念があった。

そこで辛毗が大将軍軍師・使持節(しじせつ)に任ぜられて前線へ赴くと、全軍よく彼の指図に従い、あえて非戦の方針に違反する者はいなかったという。

同年8月、諸葛亮が陣没すると、辛毗は帰還し衛尉に復帰した。

後に辛毗が死去(時期は不明)すると粛侯と諡(おくりな)され、息子の辛敞が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

同郡の荀彧(じゅんいく)が曹操に推薦したこともあり、早い段階から招かれた辛毗でしたが、旧主の袁氏を積極的に陥れるような形での鞍替えは批判されて当然だと思います。

辛毗の場合は、その後の鄴での戦いなどには関わらないほうがよかったですね。

こうした経緯があるため、曹氏に仕えてからの辛毗の剛直なエピソードも、イマイチ光らない感じがします。

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