賀邵(がしょう) ※あざなは興伯(こうはく)

【姓名】 賀邵(がしょう) 【あざな】 興伯(こうはく)

【原籍】 会稽郡(かいけいぐん)山陰県(さんいんけん)

【生没】 227~275年(49歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・賀邵伝』あり。

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孫晧(そんこう)への諫言を引き金に無残な死を遂げる

父は賀景(がけい)だが、母は不詳。曾祖父は賀輔(がほ)で祖父は賀斉(がせい)。賀達(がたつ)は伯父。賀恵(がけい)は弟。賀質(がしつ)は従兄弟。賀循(がじゅん)という息子がいた。

258年、孫休(そんきゅう)が帝位を継ぐと、賀邵は中郎(ちゅうろう)から散騎中常侍(さんきちゅうじょうじ)となり、後に呉郡太守(ごぐんたいしゅ)に転ずる。

264年、孫晧が帝位を継ぐと、賀邵は中央へ戻って左典軍(さてんぐん)となり、中書令(ちゅうしょれい)に昇進して太子太傅(たいしたいふ)を兼ねた。

孫晧が凶暴かつ傲慢な態度で政治を行うようになると、賀邵は上疏文を奉って強く諫めた。そのため孫晧にひどく恨まれる。

また、賀邵は公正さを貫いたことで、日ごろ孫晧に親近する者たちから憚(はばか)られる存在だったが、そのうち「賀邵は楼玄(ろうげん)とともに国家を誹謗(ひぼう)している」と讒言(ざんげん)された。

賀邵と楼玄は取り調べを受け、楼玄は広州(こうしゅう)へ流されたが、やがて賀邵は復職を認められた。

ところがその後、賀邵は中風(ちゅうぶ)を患って話せなくなる。

そこで辞職して数か月を過ごしたが、孫晧は、彼が病にかこつけて引退を願い出たのではないかと疑い、酒蔵に閉じ込めて拷問を加えさせた。

しかし、賀邵はひと言も話さぬまま殺害(275年のこととある)され、一族も臨海郡(りんかいぐん)への強制移住を命ぜられる。このとき賀邵は49歳だったという。

管理人「かぶらがわ」より

この賀邵については、一部で賀劭と表記されている箇所もあるようです。

賀邵の上疏文には当時の朝廷の惨状が列挙されており、孫晧の機嫌を損ずるに十分すぎるものでした。

とはいえ、君主が自分におもねる小人物ばかりを重用し、正論を述べる良臣に難癖をつけて殺害してばかりいるようでは、もはや国家の存続など絶望的。

結局、賀邵の死から5年後の280年、呉は晋(しん)の大攻勢を受けて滅亡しました。

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