【姓名】 楼玄(ろうげん) 【あざな】 承先(しょうせん)
【原籍】 沛郡(はいぐん)蘄県(きけん)
【生没】 ?~?年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 第120回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・楼玄伝』あり。
孫晧(そんこう)から名声を妬まれて、報われぬ最期
父母ともに不詳。楼拠(ろうきょ)という息子がいた。
楼玄は孫休(そんきゅう)の時代(258~264年)に監農御史(かんのうぎょし)となる。
264年、孫晧が帝位を継ぐと、楼玄は王蕃(おうはん)・郭逴(かくたく)・万彧(ばんいく)らとともに散騎中常侍(さんきちゅうじょうじ)に任ぜられた。
後に楼玄は地方へ出て会稽太守(かいけいたいしゅ)に転じ、再び中央へ戻って大司農(だいしのう)となった。
それまで宮中の諸事をつかさどる役目には、皇帝と親しい人物を起用するのが常だったが、万彧が上陳し、こうした役目に優れた人格者を用いるべきだと述べた。
そこで孫晧は担当官吏に命じ、心持ちが清らかで忠義に厚い者を推薦させたところ、楼玄が選ばれて宮下鎮(きゅうかちん)・禁中侯(きんちゅうこう)となり、宮中の諸事を統括することになる。
楼玄は威儀を正し、厳格に掟(おきて)を順守するあまり、時に孫晧の意向に逆らうこともあったため、次第に彼の怒りを買うようになっていく。やがて誣告(ぶこく)を受けて広州(こうしゅう)へ流された。
東観令(とうかんれい)の華覈(かかく)が上疏文を奉り、赦免を請うたものの、孫晧は楼玄の名声の高さをかえって憎み、さらに楼玄と息子の楼拠を交阯(こうし。交趾)に移す。
そして、部将の張奕(ちょうえき)の下で戦功を立てよと命ずる一方、密かに張奕にはふたりの殺害を命じた。
楼拠は交阯に到着後に病死したが、楼玄は張奕に付き従って賊の討伐にあたり、自ら武器を手に山野を駆け回ったうえ、張奕にも敬意をもって応対した。
そのため張奕は楼玄を殺すことができず、なかなか孫晧の命令を果たせないでいた。
そのうち張奕が急死し、楼玄が葬儀を執り行ったが、遺品の中に孫晧の(楼玄の殺害を命じた)詔書を見つけると、家に帰るなり自殺(時期は不明)してしまったという。
管理人「かぶらがわ」より
楼玄の最期については、本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く虞溥(ぐふ)の『江表伝(こうひょうでん)』に別の話も見えました。
それは孫晧が部将の張奕に命じて、配流した楼玄を追いかけさせ、彼に毒薬を賜って自殺するよう命じたのだ、というもの。
ところが張奕は、楼玄が賢者であることを知っていたので、彼に追いついても詔(みことのり)を伝えるに忍びなかったという。
そのうち楼玄が事情を察すると、張奕にこう言います。
「さあ、早くお告げになってください。いったい私に何の心残りがありましょうか」
こうして楼玄は、その場で毒薬を仰いで死んでしまったのだとか。
なお、裴松之は楼玄の性格を考えて、本伝よりこちらの『江表伝』の言い分を支持していました。
コメント ※下部にある「コメントを書き込む」ボタンをクリック(タップ)していただくと入力フォームが開きます