【姓名】 杜氏(とし) ※名とあざなは不詳
【原籍】 ?
【生没】 ?~?年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。
魏(ぎ)の曹操(そうそう)の側室、杜夫人(とふじん)
父母ともに不詳。曹操との間に曹林(そうりん)と曹袞(そうこん)、さらに娘の金郷公主(きんきょうこうしゅ)を儲けた。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・明帝紀〈めいていぎ〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『献帝伝(けんていでん)』によると、「もとは秦宜禄(しんぎろく)の妻。曹操が奪い取る形で側室にした際、息子の秦朗(しんろう)も引き取られた」という。
管理人「かぶらがわ」より
登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。
上で引かれた『献帝伝』には、杜氏が曹操の側室になるまでの経緯が載せられています。
「夫の秦宜禄が呂布(りょふ)の使者として袁術(えんじゅつ)のもとに出向いた際、袁術は(下邳〈かひ〉に妻がいるのに)秦宜禄を漢王朝(かんおうちょう)の一族の娘と結婚させてしまった。このとき杜氏は下邳で留守をまもっていた」
「曹操が呂布を包囲したとき、関羽(かんう)は何度も『杜氏を妻にしたい』と曹操に頼む。曹操は下邳城を陥した後で杜氏と会い、そのまま自分の側室にしてしまった」というもの。
この一件は『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・関羽伝)の裴松之注に引く王隠(おういん)の『蜀記(しょくき)』にも見えました。
「曹操が劉備(りゅうび)とともに下邳で呂布を包囲したとき、関羽が曹操に上言した。『呂布は秦宜禄を使者として(袁術に)援助を求めております。私は秦宜禄の妻を娶(めと)りたいと思います』。これを曹操は許した」
「呂布が敗れた後、再び(関羽は)何度も曹操に上言した。曹操は使者を遣わして杜氏を迎え入れると、そのまま手元に置いたので関羽の心は落ち着かなかった。この記事は孫盛(そんせい)の『魏氏春秋(ぎししゅんじゅう)』の話と同じである」とあります。
最後のところで「『魏氏春秋』の話と同じ」とありますが、これは「『献帝伝』の話と同じ」の誤りと思われます。訳者注(井波律子〈いなみ・りつこ〉氏)でも指摘されていました。
なお『三国志演義』や吉川『三国志』では、関羽にまつわるこの手の話は採られていません。
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