鍾会(しょうかい) ※あざなは士季(しき)

【姓名】 鍾会(しょうかい) 【あざな】 士季(しき)

【原籍】 潁川郡(えいせんぐん)長社県(ちょうしゃけん)

【生没】 225~264年(40歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第107回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・鍾会伝』あり。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

蜀(しょく)の平定で功を立てるも、すぐに反乱を起こして自滅

父は鍾繇(しょうよう)、母は張氏(ちょうし)。鍾演(しょうえん)は叔父。鍾毓(しょういく)は異母兄。鍾駿(しょうしゅん)・鍾毅(しょうき)・鍾峻(しょうしゅん)・鍾辿(しょうてん)はみな甥。

鍾会は幼いころから賢かったが、6歳の時(230年)に父を亡くした。成人すると、その才略や学識により名を上げる。

曹芳(そうほう)の正始(せいし)年間(240~249年)に秘書郎(ひしょろう)に任ぜられ、後に尚書(しょうしょ)・中書侍郎(ちゅうしょじろう)に昇進。254年に曹髦(そうぼう)が帝位を継ぐと関内侯(かんだいこう)に封ぜられた。

翌255年1月、毌丘倹(かんきゅうけん)と文欽(ぶんきん)が淮南(わいなん)で反乱を起こすと、大将軍(だいしょうぐん)の司馬師(しばし)が東征を行い、鍾会も従軍して計略を担当した。

同年閏(うるう)1月、司馬師が許昌(きょしょう)で死去すると、弟で衛将軍(えいしょうぐん)の司馬昭(しばしょう)が全軍の総帥となり、鍾会は引き続き作戦計画に参与した。

このとき曹髦が詔(みことのり)を下し、司馬昭を許昌に留める一方、尚書の傅嘏(ふか)に諸軍をひきいて帰還するよう命ずる。

鍾会は(司馬昭から軍勢を取り上げようという曹髦の意図を見抜き、)傅嘏に上奏文を奉らせ、すぐに司馬昭とともに出発し、洛水(らくすい)の南まで戻って駐屯した。

同年2月、やむなく曹髦は、司馬昭を大将軍・録尚書事(ろくしょうしょじ)に任じて政治を補佐させる。

鍾会は黄門侍郎(こうもんじろう)に昇進し、東武亭侯(とうぶていこう)に爵位が進む。封邑(ほうゆう)は300戸だった。

257年4月、曹髦が征東大将軍(せいとうだいしょうぐん)の諸葛誕(しょかつたん)を召し還し、司空(しくう)に任ずる。

このころ鍾会は母の喪(この年の2月に死去したという)に遭い、退官して家にいたが、諸葛誕が命令に従わないとみて、司馬昭のもとに駆けつけて意見を述べた。

だが、すでに事務上の手続きが済んでいたため、諸葛誕への召還命令は変更されなかった。

同年5月、諸葛誕が淮南で反乱を起こすと、曹髦は郭太后(かくたいこう。明元郭皇后〈めいげんかくこうごう〉)を伴って親征し、項(こう)に到る。

司馬昭も26万の大軍をひきいて丘頭(きゅうとう)に駐屯したが、このとき鍾会も付き従っていた。

呉(ご)の全琮(ぜんそう)は孫権(そんけん)と姻戚関係にある重臣だったが、諸葛誕の要請を受けて、彼の息子の全懌(ぜんえき)や孫の全静(ぜんせい)を始め、従子(おい)の全端(ぜんたん)・全翩(ぜんへん)・全緝(ぜんしゅう)らもみな兵をひきいて救援に向かった。

全琮の孫の全輝(ぜんき)と全儀(ぜんぎ)は都の建業(けんぎょう)に残っていたが、一族内で訴訟沙汰が起こると、母と数十軒の配下を連れて魏の司馬昭に帰順した。

全輝は全禕(ぜんい)と同一人物のようだが、イマイチよくわからず。

鍾会の献策が容れられ、全輝と全儀の書いた文書を寿春城(じゅしゅんじょう)に届けさせたところ、全懌らは部下とともに東の城門を開いて魏に降伏した。以来、寿春の城内に立て籠もる者たちのまとまりが失われた。

魏が(258年2月に)諸葛誕の反乱を鎮圧できたことについては、鍾会の一連の働きが大きく、司馬昭の親愛と待遇は日に日に高まったという。

鍾会は帰還後に太僕(たいぼく)に昇進したが、固辞して就任せず、中郎(ちゅうろう)として司馬昭の役所に留まり記室(きしつ)を務める。

また、諸葛誕討伐の功により陳侯(ちんこう)に爵位が進んだものの、これも辞退して受けなかった。

そのうち鍾会は司隷校尉(しれいこうい)に昇進したが、中央から離れても政治上の変更や賞罰に参与する。(262年に)嵆康(けいこう)らが処刑されたことも、彼の計策によるものだった。

司馬昭は、蜀の姜維(きょうい)が繰り返し国境地帯を騒がせる様子から、蜀の民力や財力が尽きたとみて一挙に平定しようと考える。

鍾会も蜀を取ることができると考えたので、司馬昭と相談し、敵地の地形などを調べて検討を重ねた。

262年冬、鍾会は鎮西将軍(ちんぜいしょうぐん)・仮節(かせつ)・都督関中諸軍事(ととくかんちゅうしょぐんじ)となる。

司馬昭は、青州(せいしゅう)・徐州(じょしゅう)・兗州(えんしゅう)・豫州(よしゅう)・荊州(けいしゅう)・揚州(ようしゅう)の各州に船の建造を命じたうえ、唐咨(とうし)にも海用の大型船の建造を命じ、呉討伐の準備と見せかけた。

翌263年秋、曹奐(そうかん)の詔が下り、征西将軍(せいせいしょうぐん)の鄧艾(とうがい)と雍州刺史(ようしゅうしし)の諸葛緒(しょかつしょ)が3万余ずつの軍勢をひきいて出撃する。

鄧艾は甘松(かんしょう)や沓中(とうちゅう)で姜維と全面的に対峙(たいじ)し、諸葛緒は武街(ぶがい)や橋頭(きょうとう)へ向かい、姜維の退路を断つことになっていた。

このとき鍾会も別に10余万の軍勢をひきい、斜谷(やこく)や駱谷(らくこく)から蜀の地へと進む。

蜀軍は戦わず、引き返して漢城(かんじょう)と楽城(らくじょう)を守った。

魏軍は魏興太守(ぎこうたいしゅ)の劉欽(りゅうきん)が子午谷(しごこく)へ向かい、諸軍は数本の街道から同時に進み、漢中(かんちゅう)へ入る。

蜀の護軍(ごぐん)の蔣斌(しょうひん)が漢城を、監軍(かんぐん)の王含(おうがん)が楽城を、それぞれ5千の兵で守っていた。

そこで鍾会は、護軍の荀愷(じゅんがい)に漢城を、前将軍(ぜんしょうぐん)の李輔(りほ)に楽城を、それぞれ1万の兵で包囲させる。

そのまま鍾会は西方の陽安口(ようあんこう)へ抜けると、人を遣って諸葛亮(しょかつりょう)の墓で祭祀(さいし)を行わせた。

そして護軍の胡烈(これつ)を先行させ、陽安関(ようあんかん)を攻略し兵糧を手に入れる。

姜維は沓中から陰平(いんぺい)に引き返し、軍勢を結集して陽安関へ向かう。

だが、すでに関が魏軍に陥されたと聞くと白水(はくすい)へ引き、張翼(ちょうよく)や廖化(りょうか)らと合流して剣閣(けんかく)に立て籠もった。

鄧艾は姜維を追いかけ陰平に至り、精兵をもって漢徳陽(かんとくよう)を経て江由(こうゆう)や左儋道(さたんどう)へ入り、緜竹(めんちく)から成都(せいと)へ向かった。

このとき諸葛緒も一緒に進軍したが、彼は姜維を迎撃するのが任務であり、西進は詔の趣旨に外れるものだった。しかし構わずに進軍を続け、白水で鍾会と出会う。

鍾会は将軍の田章(でんしょう)らに、剣閣の西を通って江由へ出るよう命ずる。田章は江由まで100里のところで蜀の伏兵と戦い、これら3部隊を撃破した。

一方で鄧艾は田章を先鋒に、長駆して成都を目指す。鍾会は諸葛緒とともに剣閣へ向かったが、軍勢を独り占めしたいと考えるようになった。

そこで鄧艾は、諸葛緒がおじけづいて進もうとしない、と密告。そのため諸葛緒は囚人護送車で召還されることになり、彼の軍勢は鍾会の指揮下に併せられた。

鍾会は進軍して剣閣を攻めたものの、勝てずに引き、蜀軍は要害に拠り抵抗を続ける。そのうちに間道を抜けた鄧艾が緜竹で戦い、蜀の諸葛瞻(しょかつせん)を斬った。

姜維らは諸葛瞻の敗報を聞くと、東へ行って巴(は)に入る。

鍾会は涪(ふう)まで進軍し、胡烈・田続(でんしょく)・龐会(ほうかい)らを遣って姜維を追撃させた。

鄧艾が成都へ向かうと蜀の劉禅(りゅうぜん)は戦うことなく降り、姜維らにも投降を命ずる。

姜維は郪県(しけん)まで来ると、部下に命じて武器を捨てさせ、割り符などを胡烈に届けた。こうして姜維はすぐに東の街道を通り、鍾会のもとへ出頭した。

同年12月、鍾会は詔によってたたえられ、司徒(しと)に任ぜられたうえ県侯に爵位が進み、1万戸の加増を受ける。息子ふたりも亭侯に封ぜられ、1千戸ずつの封邑を賜った。

鍾会は密かに逆心を抱いており、鄧艾が専断権を発動したことに付け込み、彼に反逆の様子が見えると密告する。

翌264年1月、これを受けて詔が下ると、鄧艾父子は捕らえられ、囚人護送車で洛陽(らくよう)へ送られることになった。

司馬昭は、鄧艾が素直に従わないかもしれないと心配し、鍾会に成都への進軍を命ずる。

この際、司馬昭は別に監軍の衛瓘(えいかん)を先行させ、直筆の命令書をもって鄧艾の配下を説諭した。兵は武器を捨て、鄧艾らは逮捕された。

同年1月、鄧艾父子が捕らえられて間もなく、鍾会が成都に入る。

翌日、鍾会は、護軍・郡守(ぐんしゅ。太守)・牙門騎督(がもんきとく)以上の地位にある者と蜀の旧臣ら全員を招き、政堂において先月(263年12月)に崩御(ほうぎょ)した郭太后の喪を発する。

さらに郭太后の遺詔を偽作し、「鍾会が挙兵して司馬昭を廃せ」とお命じになったと宣示した。

鍾会は信頼する者に諸軍の指揮を任せ、招いた蜀の旧臣たちを役所に軟禁し、兵を置いて厳重に見張らせる。成都の城門と宮門は完全に閉鎖された。

鍾会配下の帳下督(ちょうかとく)の丘建(きゅうけん)はもともと胡烈の部下で、胡烈が司馬昭に推挙した者だった。この丘建を鍾会が希望して随行させ、信任したのである。

丘建は胡烈が罪にかかっていることを悲しみ、鍾会に掛け合い、従卒ひとりを中に入れ、飲食物を届ける許しをもらう。すると諸軍営もこれに倣い、それぞれ従卒ひとりが中に入れることになった。

胡烈は、従卒に息子の胡淵(こえん)あての手紙を託し、鍾会が軟禁中の者たちを殺そうとしているという、偽の情報を流す。

この話をみな伝え合い、一夜のうちに諸軍営に知れ渡った。

同年1月、胡淵が父の配下の兵をひきいて陣門を出ると、諸軍の兵も陣太鼓を打ち鳴らして続き、先を争い城へ向かった。

鍾会は姜維に武器や鎧(よろい)を支給していたところだったが、城外で騒ぎ声がし、失火のようだと報告を受ける。しばらくして、兵が城に押し寄せてくるとの報告も受けた。

驚いた鍾会は配下を遣り、軟禁中の諸軍の騎督や郡守を皆殺しにしようとしたが、彼らは机を持ち出し、門が破られないようにした。

やがて城壁を登ってきた兵と騎督らが合流。姜維は鍾会の近侍とともに戦い、5、6人を倒したものの、大勢の兵と格闘した末に斬られる。

鍾会も、続いて向かってきた兵に殺害された。このとき40歳だった。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると、鍾会の兄の鍾毓は263年冬に死去しましたが、鍾会は兄の訃報に接する前に死ぬことになります。

鍾会に随行した甥の鍾邕は討ち死に、鍾会が養育していた兄の息子の鍾毅・鍾峻・鍾辿は投獄されて死刑になるところ――。

司馬昭が上奏したために詔が下され、特に鍾峻と鍾辿は許されて、官爵をもと通りにされたということでした。

鍾会は賢かったそうですが、このタイミングで反乱を起こして蜀の地を保てると考えていたのでしょうか?

父の名声に与える影響や一族の行く末など、もう少し深く考えられなかったものかと思います。

ただ、司馬昭は鍾会が蜀で反乱を起こす可能性があることを見抜いていた、という記事には疑問を感じました。そこまでわかっているなら鍾会を送るなよ、みたいな。

この件には数多くの人命が懸かっていたわけですからね……。

コメント ※下部にある「コメントを書き込む」ボタンをクリック(タップ)していただくと入力フォームが開きます

タイトルとURLをコピーしました