州泰(しゅうたい)

【姓名】 州泰(しゅうたい) 【あざな】 ?

【原籍】 南陽郡(なんようぐん)

【生没】 ?~261年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第111回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・鄧艾伝(とうがいでん)』に付された「州泰伝」あり。

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司馬氏(しばし)の下で活躍した将軍、諡号(しごう)は壮侯(そうこう)

父母ともに不詳。

州泰は荊州刺史(けいしゅうしし)の裴潜(はいせん)から従事(じゅうじ)に任ぜられた。

裴潜が荊州刺史になったのは、曹丕(そうひ)の黄初(こうしょ)年間(220~226年)のこと。

驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)の司馬懿(しばい)が宛(えん)に駐屯していたとき、たびたび州泰は裴潜の命を受けて遣わされたため、その名を知られるようになる。

『晋書(しんじょ)』(宣帝紀〈せんていぎ〉)によると、227年6月、司馬懿は荊豫二州諸軍事(けいよにしゅうしょぐんじ)を加官され、宛に駐屯した。

227年12月、新城太守(しんじょうたいしゅ)の孟達(もうたつ)が反乱を起こす。この際、司馬懿が討伐にあたったが、州泰は軍の先導役を務めた。

翌228年1月、孟達が斬られて反乱も治まると、州泰は司馬懿の属官として召された。

だが、このころ州泰は父母と祖父を続けて亡くし、9年にわたり喪に服すことになる。司馬懿は彼の席を欠員にして、喪が明けるのを待った。

こうして州泰は司馬懿の属官となったが、就任からわずか36日で新城太守に抜てきされた。

250年、征南将軍(せいなんしょうぐん)の王昶(おうちょう)の上奏により、魏軍が一斉に呉(ご)との国境地帯へ攻め入る。

このとき新城太守の州泰も、巫(ふ)・秭帰(しき)・房陵(ぼうりょう)を攻撃して功を立てた。

257年5月、諸葛誕(しょかつたん)が魏に背き、淮南(わいなん)で挙兵する。

同年6月、曹髦(そうぼう)が親征し項(こう)に到着。このときは郭太后(かくたいこう。明元郭皇后〈めいげんかくこうごう〉)も伴った。

大将軍(だいしょうぐん)の司馬昭(しばしょう)は26万の大軍をひきいて丘頭(きゅうとう)に駐屯する。

そして、鎮南将軍(ちんなんしょうぐん)の王基(おうき)や安東将軍(あんとうしょうぐん)の陳騫(ちんけん)に命じ、四方から寿春(じゅしゅん)を囲ませ、二重に自陣を固めた。

このとき州泰も兗州刺史(えんしゅうしし)として、監軍(かんぐん)の石苞(せきほう)らとともに精兵をひきい、遊軍となって外からの攻撃に備えた。

さらに呉の朱異(しゅい)を陽淵(ようえん)で撃破し、追撃を加えて2千の死傷者を出させた。

後に州泰は征虜将軍(せいりょしょうぐん)・仮節(かせつ)・都督江南諸軍事(ととくこうなんしょぐんじ)まで昇り、261年に死去する。衛将軍(えいしょうぐん)の官位を追贈され、壮侯と諡(おくりな)された。

管理人「かぶらがわ」より

本伝には記事が少ないため、他人の伝や裴松之注(はいしょうしちゅう)から関連記事を拾ってみました。

初めのほうにある、裴潜がらみの記事から新城太守に抜てきされたところまでは、本伝の裴松之注に引く郭頒(かくはん)の『世語(せいご。魏晋世語〈ぎしんせいご〉)』によるものですが――。

そこには、新城太守となった州泰のために司馬懿が宴会を開き、尚書(しょうしょ)の鍾繇(しょうよう)に州泰をからかわせた、という記事も見えました。

ただ、鍾繇は230年に亡くなっていますので、州泰が9年も喪に服したという記事との兼ね合いはよくわからず。

こういう具合ですから、州泰の経歴はイマイチはっきりしませんでした。

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