【姓名】 賀斉(がせい) 【あざな】 公苗(こうびょう)
【原籍】 会稽郡(かいけいぐん)山陰県(さんいんけん)
【生没】 ?~227年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・賀斉伝』あり。
各地の反乱を鎮定した豪奢(ごうしゃ)な将軍
父は賀輔(がほ)だが、母は不詳。賀達(がたつ)と賀景(がけい)という息子がいた。
もともと賀氏は慶氏(けいし)という姓で、賀斉の伯父の慶純(けいじゅん)が儒学者として名を上げ、後漢(ごかん)の安帝(あんてい)の時代(106~125年)に侍中(じちゅう)や江夏太守(こうかたいしゅ)を務めた。
いったん慶純は官を去ったが、やがて黄瓊(こうけい)や楊厚(ようこう)らとともに公車をもって召される。
このとき慶純は、安帝の父である孝徳皇(こうとくこう。劉慶〈りゅうけい〉)の諱(いみな)を避け、姓を賀氏に改めたという。
賀斉は若いころ郡吏となり、剡県長(せんけんちょう)を代行する。豪族の斯従(しじゅう)は県吏でもあり、山越(さんえつ。江南〈こうなん〉に住んでいた異民族)を手なずけて悪事を働いた。
賀斉は報復を恐れる主簿(しゅぼ。官名)の反対を退けて、すぐさま斯従を斬る。
斯従の一族郎党が1千余人を集めて県へ攻め寄せると、賀斉は県吏や住民を指揮し、県城から打って出て大破した。そのため彼の威声が山越を震わせることになった。
後に太末県(たいばつけん)と豊浦県(ほうほけん)の住民が反乱を起こすと、賀斉は太末県長を代行。反抗者を誅殺する一方で従順な者は保護し、1年ほどですべて平定した。
196年、孫策(そんさく)が会稽太守として郡に臨むと、賀斉は孝廉(こうれん)に推挙される。
このころ、孫策に敗れた前の会稽太守の王朗(おうろう)が東冶(とうや)に逃げ込み、候官県長(こうかんけんちょう)の商升(しょうしょう)は彼のために孫策討伐の兵を挙げた。
孫策は永寧県長(えいねいけんちょう)の韓晏(かんあん)を南部都尉(なんぶとい)に任じ、兵を指揮して商升を討伐するよう命じた。
そこで賀斉が代わって永寧県長を務めたが、韓晏が商升に敗れると、またも代わって南部都尉を務めることになる。
すると商升は賀斉の威名に恐れをなし、使者を遣わして盟約を結びたいと伝えてきた。
賀斉がその使者を通じて、商升に身の処し方を告げ諭したところ、商升は印綬(いんじゅ。官印と組み紐〈ひも〉)を返上し、根拠地も捨てて降伏する旨を伝えてくる。
ところが頭目の張雅(ちょうが)や詹彊(せんきょう)らは不満を抱き、共謀して商升を殺害。張雅が無上将軍(むじょうしょうぐん)を、詹彊が会稽太守を、それぞれ勝手に名乗った。
それでも賀斉は味方の兵が少ないことを考え、ひとまず軍勢を留めて様子を見る。
そのうち張雅が娘婿の何雄(かゆう)と勢力争いを始めると、賀斉は山越に働きかけ、両者の内部抗争を煽(あお)らせた。
ここで賀斉はようやく軍勢を進め、一戦して大破する。張雅や詹彊らの一味はみな降伏し、候官は平定された。
203年、建安(けんあん)・漢興(かんこう)・南平(なんぺい)の3県で反乱が起こったため、賀斉は建安まで軍勢を進めて都尉の役所を置く。
会稽郡では各県に命じて5千人ずつ兵士を集め、それぞれの県長に部隊を指揮させたうえ、これらの部隊には賀斉の指示を仰がせた。
不服従民の洪明(こうめい)・洪進(こうしん)・苑御(えんぎょ)・呉免(ごめん)・華当(かとう)は、それぞれ1万戸を従えており、みな漢興に本営を置いていた。
また彼らとは別に、呉五(ごご)が6千戸を従えて大潭(だいたん)に本営を置き、鄒臨(すうりん)も6千戸を従えて蓋竹(がいちく)に本営を置いていた。そして反乱軍は余汗(よかん)まで軍勢を進めた。
賀斉は、漢興を攻撃するべく途中の余汗まで来たところで、松陽県長(しょうようけんちょう)の丁蕃(ていばん)を余汗に留め、反乱軍の動きに備えさせる。
しかし丁蕃は、もとは隣り合う城を治めていた同輩の賀斉の指図を受けることを恥とし、余汗に留まる件を承知しない。
やむなく賀斉は丁蕃を斬ったが、これを見た軍中は震え上がり、以後はみな命令を聞くようになった。
賀斉は一部を余汗に留めると、残りの軍勢を進めて洪明らを討伐。洪明が討ち死にすると、呉免・華当・洪進・苑御は降伏した。
続いて賀斉は軍勢を転じて蓋竹を攻め、大潭に迫ると、同様に3人の頭目も降伏した。一連の戦いで反乱軍の6千人を斬首し、名のある頭目をことごとく捕らえる。
賀斉は県や村を立て直したうえ、1万人の兵士を選抜して軍に編入。功により平東校尉(へいとうこうい)に任ぜられた。
205年、賀斉が上饒県(じょうじょうけん)を討伐すると、孫権(そんけん)はその地を分割して建平県(けんぺいけん)を新設した。
208年、賀斉は威武中郎将(いぶちゅうろうしょう)に昇進し、丹陽(たんよう。丹楊)・黟(い)・歙(しょう)の3県を討伐する。
このとき武彊(ぶきょう)・葉郷(ようきょう)・東陽(とうよう)・豊浦の4郷が速やかに降伏したため、賀斉の上表によって葉郷が始新県(ししんけん)に昇格した。
だが、ほどなく歙の不服従民の頭目の金奇(きんき)が、1万戸を従えて安勒山(あんろくざん)に立て籠もり、同じく毛甘(もうかん)も、1万戸を従えて烏聊山(うりょうざん)に立て籠もる。
さらに黟の不服従民の頭目の陳僕(ちんぼく)や祖山(そざん)らも、2万戸を従えて林歴山(りんれきざん)に立て籠もった。
林歴山は四方が切り立ち、高さも数十丈あり、山へつながる小道は狭くて刀や盾を使えず、反徒が高所から石を落としてくるため、なかなか攻めることができない。討伐軍が進めずにいるうち、部将や兵士の間に不満が高まってきた。
そこで賀斉は山の周囲を見て回り、ひそかに敏捷な兵士を集めると、夜陰に紛れて山をよじ登る。
登りきった兵士が散らばって太鼓や角笛を鳴らすと、反乱軍は大混乱に陥り、陳僕らは大敗。残った者はみな降伏したが、一連の戦いで7千人の賊徒が斬られた。
賀斉は再び上表し、歙県を分割して、新定(しんてい)・黎陽(れいよう)・休陽(きゅうよう)・幷(へい)・黟・歙の6県に再編するよう求めた。
この上表が容れられ、6県などをもって新都郡(しんとぐん)が新設されると、賀斉は新都太守・偏将軍(へんしょうぐん)に任ぜられ、始新県に役所を置いた。
211年、余杭(よこう)の平民の郎稚(ろうち)が一族とともに反乱を起こし、数千人の配下を集める。賀斉は討伐にあたり、すぐさま郎稚を討ち破った。
また賀斉の上表により、余杭県を分割して臨水県(りんすいけん)が新設された。
213年、豫章(よしょう)東部の平民の彭材(ほうざい)・李玉(りぎょく)・王海(おうかい)らが反乱を起こし、1万余人の配下を集める。賀斉が討伐にあたって首謀者を誅殺すると、残った者はみな降伏した。
その中から精悍(せいかん)な者を選んで兵士とし、ほかの者は県の戸籍に編入する。賀斉は功により奮武将軍(ふんぶしょうぐん)に昇進した。
215年、賀斉は、孫権に付き従って合肥(ごうひ)へ遠征。
孫権は引き揚げの際、逍遥津(しょうようしん)の北で曹操(そうそう)配下の張遼(ちょうりょう)の急襲を受け、危うく命を落としそうになる。
このとき賀斉は3千の軍勢をひきいて逍遥津の南におり、危地を逃れた孫権を迎え入れた。
翌216年、鄱陽(はよう)の平民の尤突(ゆうとつ)が、曹操から印綬を受けて民衆を扇動し、孫権に対する反乱を起こす。陵陽(りょうよう)・始安(しあん)・涇県(けいけん)の3県も、そろって尤突に呼応した。
賀斉が陸遜(りくそん)と討伐にあたり、数千の反徒の首を斬ると、残った者は降伏。丹楊の3県(陵陽・安呉〈あんご〉・涇県)もみな降った。
降伏者の中から8千の精兵を軍に編入すると、賀斉は功により安東将軍(あんとうしょうぐん)に任ぜられ、山陰侯(さんいんこう)に封ぜられた。
そして長江(ちょうこう)のほとりに駐屯し、扶州(ふしゅう)から上流の皖(かん)までの地域の軍事を統括した。
222年、魏(ぎ)の曹休(そうきゅう)が来攻した際、賀斉は戦場まで距離があったため到着が遅れ、新市(しんし)に留まる。
このとき洞口(どうこう)の呉軍が暴風に遭い、水軍の半数を失って動揺した。しかし、賀斉の軍勢が後方にあって無傷だったため、呉軍は勢いを盛り返すことができた。
賀斉は豪奢を好み、武器・防具・兵器の類いは上等な物を用い、彼の軍の闘艦や蒙衝(もうしょう。突撃艦。艨艟)も華やかに飾られていた。曹休らはこうした威容を見て恐れをなし、軍勢をまとめて引き揚げた。
賀斉は、後将軍(こうしょうぐん)・仮節(かせつ)・徐州牧(じょしゅうぼく)に昇進した。
もともと晋宗(しんそう)は戯口(ぎこう)の守将だったが、配下をひきいて魏に降り、蘄春太守(きしゅんたいしゅ)に任ぜられていた。
翌223年、賀斉は孫権の命を受け、麋芳(びほう)や鮮于丹(せんうたん)らとともに蘄春を襲撃し、晋宗を生け捕りにする。
227年、賀斉は死去した。
管理人「かぶらがわ」より
若いころから各地の反乱鎮定に駆け回った賀斉ですが、吉川『三国志』や『三国志演義』には登場しません。
目を引く装備を遣ったり、自軍の船を飾り立てるなど、小説向きの感じがしますが……。
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