孫魯育(そんろいく) ※あざなは小虎(しょうこ)、朱公主(しゅこうしゅ)

【姓名】 孫魯育(そんろいく) 【あざな】 小虎(しょうこ)

【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん)

【生没】 ?~255年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

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呉(ご)の孫権(そんけん)の娘、朱公主(しゅこうしゅ)

父は孫権、母は歩氏(ほし)。

孫登(そんとう)・孫慮(そんりょ)・孫和(そんか)・孫霸(そんは)・孫奮(そんふん)・孫休(そんきゅう)・孫亮(そんりょう)は兄弟。同母姉の孫魯育(そんろいく)に加え、劉纂(りゅうさん)に嫁いだ異母姉もいた。

孫魯育は229年に朱拠(しゅきょ)に嫁いだ。このことから朱公主とも呼ばれる。250年?に朱拠が亡くなると、後に劉纂と再婚した。

朱拠との間に儲けた娘の朱氏(景皇后〈けいこうごう〉)は、赤烏(せきう)年間(238~251年)の末に孫休に嫁いだ。

238年に歩氏が亡くなった後、241年5月には皇太子の孫登が薨去(こうきょ)した。

翌242年1月、孫和が皇太子に立てられ、孫権は孫和の母の王氏(おうし。大懿皇后〈たいいこうごう〉。琅邪〈ろうや〉の人)を皇后に立てようとした。

しかし、同母姉の孫魯班は日ごろから王氏を憎んでおり、孫権に少しずつ彼女の悪口を吹き込んでいた。

孫権が重い病にかかったとき、孫魯班は「王氏がうれしそうな顔をしておりました」と告げたので、孫権は王氏にひどくあたるようになった。その後、王氏は憂いのあまり亡くなってしまう。

250年に孫和が故鄣(こしょう)へ幽閉され、同年11月には孫亮が皇太子に立てられた。

252年4月、孫権が崩御(ほうぎょ)し、孫亮が帝位を継ぐ。

こうして建興(けんこう)年間(252~253年)に孫峻(そんしゅん)が政治をほしいままにすると、帝族はみな自分の身に不安を覚えた。

ただ、全尚(ぜんしょう。全琮〈ぜんそう〉の一族)の妻が孫峻の姉だったことから、全公主(ぜんこうしゅ。孫魯班)だけは安泰だった。

もともと孫和が皇太子だったとき、全公主はその母である(琅邪の)王氏を讒言(ざんげん)し、孫和を廃して魯王(ろおう)の孫霸を立てたいと考えていた。

ところが、この考えに朱公主(孫魯育)が同意しなかったため、姉妹の間に仲たがいが生じた。

翌253年、全公主は孫和の母(琅邪の王夫人)と仲が良くなかったことから、孫峻を唆して孫和を新都郡(しんとぐん)に強制移住させたうえ、さらに使者を遣って孫和に自殺を命じた。このとき孫和の正室だった張氏(ちょうし)も一緒に自殺した。

五鳳(ごほう)年間(254~256年)には孫儀(そんぎ)が孫峻の暗殺を計ったものの、事が発覚して誅殺された。

全公主はこの事件にかこつけ、「朱公主も孫儀の企てに加わっていた」と上言する。これを受けて、朱公主は無実だったにもかかわらず、事件に連座する形で殺害された。

管理人「かぶらがわ」より

同母姉の孫魯班が何とも激しい女性でしたので、孫魯育も悲惨な最期を迎えることになってしまいました。

孫魯班と孫魯育の姉妹は生年がわからず、孫権の7人の息子たちから見て、年齢的にどのあたりに入ってくるのかもはっきりしません。

ただ『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫休朱夫人伝〈そんきゅうしゅふじんでん〉)には、冒頭部分に「孫休の朱夫人は朱拠の娘で、孫休の姉の朱公主(孫魯育)が生んだ子である」とありました。

孫休は235年生まれですから、彼より孫魯育が年長だと言っているわけです。また、孫魯育が朱拠に嫁いだのが229年であることを考えると、生年は210年代でしょうか?

ちなみに孫権の長男の孫登は209年生まれ。微妙ですね……。まぁこれだと、姉の孫魯班は孫登より先に生まれたことが想像できます。

そして次男の孫慮は213年生まれ、三男の孫和は224年生まれ。このあたりから考えると、孫魯育は孫慮と孫和の間に入る、という感じでしょうか? ほかの記事を丁寧に調べると、もう少し具体的なことがわかるかもしれません。

「孫休朱夫人」の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く干宝(かんぽう)の『捜神記(そうじんき)』には、次のような話もありました。

「孫峻は朱公主を殺害した後、その遺骸を石子岡(せきしこう。建業〈けんぎょう〉南郊の丘陵地帯)に埋めさせた」

「264年に孫晧(そんこう)が帝位に即くと、朱公主を改葬しようと考えた。しかし、石子岡にある墓はみなよく似ていて、どれが朱公主のものなのかわからなかった」

「宮女の中に朱公主が亡くなったときの衣服をいくらか覚えていた者があったので、孫晧はふたりの巫女(みこ)に命じ、それぞれ別の場所から朱公主の霊の様子をうかがわせた。その際には別の者に命じて、ふたりの巫女が互いに接触しないよう監視させた」

「しばらくして、ふたりの巫女はともに言った。『ひとりの女性が見えました。30歳すぎぐらいで、上には青錦の衣と束頭(?)、紫と白の袷(こう。あわせ〈裏地の付いた着物〉)と裳(しょう。もすそ〈したばかま〉)を着けられ、赤い厚織りの絹の履物をはいておられます』」

「『その女性は石子岡を半ばまで登ったところで、手で膝を押さえて大きなため息をつかれました。そこにしばらく留まられた後、ひとつの塚のほとりで立ち止まられ、そのあたりをうろうろされているうちに、ふとお姿が見えなくなりました』」

「ふたりの言うことがまったく同じだったため、その塚を開いてみたところ、中から巫女が言った通りの衣服を着けた朱公主の遺骸が出てきた」のだとか。

巫女が見た女性が30歳すぎだったというところは引っかかりますけど……。まぁ、ここはよしとします。

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