【姓名】 霍峻(かくしゅん) 【あざな】 仲邈(ちゅうばく)
【原籍】 南郡(なんぐん)枝江県(しこうけん)
【生没】 177?~216年?(40歳)
【吉川】 第197話で初登場。
【演義】 第062回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・霍峻伝』あり。
葭萌(かぼう)を死守し、劉備(りゅうび)の益州(えきしゅう)平定に貢献
父母ともに不詳。霍篤(かくとく)は兄。霍弋(かくよく)という息子がいた。
初め兄の霍篤は、郷里で数百人の私兵を集めたが、彼が死去すると荊州牧(けいしゅうぼく)の劉表(りゅうひょう)の命を受けて、弟である霍峻が私兵を管理した。
208年、劉表が死去すると、霍峻は配下をひきいて劉備に帰服し、中郎将(ちゅうろうしょう)に任ぜられる。
211年、劉備は益州へ入り、翌212年には葭萌から反転して劉璋(りゅうしょう)への攻撃を開始。このとき霍峻が葭萌に留まり、城を守ることになった。
この間に張魯(ちょうろ)配下の将軍の楊帛(ようはく)がやってきて、ともに城を守ろうと誘ったものの、霍峻は言った。
「私の首は得られても、この城を得ることはできないぞ」
これを聞いた楊帛は、やむなく引き下がる。
後に劉璋配下の将軍の扶禁(ふきん)や向存(しょうそん)らが1万余人の軍勢をひきい、閬水(ろうすい)をさかのぼって霍峻を攻囲した。この戦いは1年近くも続いたが、ついに葭萌は陥落しなかった。
霍峻の下には数百人の兵士しかいなかったが、隙をうかがい、精鋭を選んで出撃したところ、敵を大破して向存の首を斬ることができた。
214年、劉備が成都(せいと)で劉璋を降すと、霍峻の功を嘉(よみ)し、広漢郡(こうかんぐん)を分割して梓潼郡(しとうぐん)を置いたうえ、彼を梓潼太守(しとうたいしゅ)・裨将軍(ひしょうぐん)に任じた。
216年?、霍峻は在任3年にして死去。このとき40歳だったという。遺体は成都へ運ばれて埋葬された。
劉備は彼の死を甚だ哀惜し、特に自ら群臣をひきいて弔祭に臨む。また、そのまま墓のそばで泊まったので、当時の人々は栄誉だとたたえた。
管理人「かぶらがわ」より
本伝には、霍峻の死を劉備がひどく悲しんだとありました。
それも当然で、葭萌を守り抜いたことは見た目以上の大功でした。彼の働きがなければ、劉備の成都入りも遅れたか、はたまたなかったか――。
あと10年や20年、霍峻に活躍してもらえたら、諸葛亮(しょかつりょう)も大いに助かったことでしょう。
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