【姓名】 閻柔(えんじゅう) 【あざな】 ?
【原籍】 広陽郡(こうようぐん)
【生没】 ?~?年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。
異民族から敬われた将軍
父母ともに不詳。閻志(えんし)は弟。
閻柔は若いころに捕らえられ、烏丸族(うがんぞく)や鮮卑族(せんぴぞく)のもとで暮らしたが、成長するうち彼らから崇敬を集めるまでになった。
193年、幽州牧(ゆうしゅうぼく)の劉虞(りゅうぐ)が前将軍(ぜんしょうぐん)の公孫瓚(こうそんさん)に処刑された。
これを受け、劉虞配下で従事(じゅうじ)を務めていた漁陽(ぎょよう)の鮮于輔(せんうほ)と斉周(せいしゅう)、さらに騎都尉(きとい)の鮮于銀(せんうぎん)らは、幽州の兵をひきいて公孫瓚に報復しようと考える。
そこで、異民族の信頼を得ている閻柔を烏丸司馬(うがんしば)に立てた。閻柔は烏丸族や鮮卑族にも呼びかけ、異民族と漢人(かんじん)からなる数万の軍勢を整える。
そして、公孫瓚が任命した漁陽太守(ぎょようたいしゅ)の鄒丹(すうたん)と潞北(ろほく)で戦い、大破したうえ鄒丹を斬った。
次いで漢の烏丸校尉(うがんこうい)の邢挙(けいきょ)も斬り、閻柔自ら代わる。袁紹(えんしょう)は閻柔らを厚遇することで、北方の安定を図ろうとしたという。
199年、袁紹の大攻勢を受け、易京(えきけい)で公孫瓚が滅ぶ。
翌200年、曹操(そうそう)と袁紹が官渡(かんと)で対峙(たいじ)すると、閻柔は曹操に使者を遣って帰順し、護烏丸校尉(ごうがんこうい)に任ぜられた。
205年、曹操が南皮(なんぴ)で袁譚(えんたん)を討伐した際、閻柔は配下の異民族をひきいて従軍し、名馬を献ずる。
曹操は閻柔を正式な烏丸校尉に任じ、漢の使節(はたじるし)を与えたうえ、上谷郡(じょうこくぐん)の寧城(ねいじょう)に駐屯させた。
207年、閻柔は曹操が3郡(遼西〈りょうせい〉・遼東〈りょうとう〉・右北平〈ゆうほくへい〉)の烏丸を討伐した際も従軍し、功により関内侯(かんだいこう)に封ぜられる。
曹操は、閻柔の配下にあった幽州と幷州(へいしゅう)の烏丸1万余落と3郡の烏丸を併せ、彼らを内地へ移住させたという。
211年、曹操が関中(かんちゅう)の韓遂(かんすい)と馬超(ばちょう)を討伐した際、田銀(でんぎん)や蘇伯(そはく)が河間(かかん)で反乱を起こす。
閻柔は鮮卑の大人(たいじん。部族の有力者)の軻比能(かひのう)とともに、田銀の討伐に加わった。
なお、軻比能は建安(けんあん)年間(196~220年)に、たびたび閻柔を通じて朝廷に献上品を奉っていたという。
220年、曹丕(そうひ)が帝位に即くと、閻柔は度遼将軍(どりょうしょうぐん)に昇進する。県侯(けんこう)に爵位が進み、特進(とくしん。三公に次ぐ待遇)の位を授かった。
管理人「かぶらがわ」より
上で挙げた記事は、『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・公孫瓚伝)とその裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』および『三国志』(魏書・烏丸伝)と『三国志』(魏書・鮮卑伝)によるものです。
『魏略』によると、曹操は閻柔によく目をかけ、いつもこう言っていたそうです。
「私は卿(きみ)を実の子のように思っている。卿も私を実の父のように思ってほしい」
そのため閻柔は(曹操の息子である)曹丕も頼りにし、ふたりは兄弟のようだったのだと。
ただ、曹丕の即位後の閻柔については上で挙げた以外の記事がなく、没年などもわかりませんでした。
異民族との暮らしが長かったことも影響しているのか、閻柔には内地の人にない魅力があったようですね。
コメント ※下部にある「コメントを書き込む」ボタンをクリック(タップ)していただくと入力フォームが開きます