孫匡(そんきょう) ※あざなは季佐(きさ)

【姓名】 孫匡(そんきょう) 【あざな】 季佐(きさ)

【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 第033話で初登場。
【演義】 第007回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫匡伝』あり。

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呉(ご)の孫権(そんけん)の弟

父は孫堅(そんけん)、母は呉氏(武烈皇后〈ぶれつこうごう〉)。

同母兄には孫策(そんさく)・孫権・孫翊(そんよく)がおり、異母弟には孫朗(そんろう。孫仁〈そんじん〉)がいる。また、妹?の孫氏は蜀(しょく)の劉備(りゅうび)に嫁いだものの、後に呉へ戻った。

妻は曹操(そうそう)の弟の娘。この曹氏が生んだ息子の孫泰(そんたい)は跡継ぎ。

孫匡は孝廉(こうれん)と茂才(もさい)に推挙されたものの、任官される前に死去した。このとき20余歳だったという。息子の孫泰が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。

本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く虞溥(ぐふ)の『江表伝(こうひょうでん)』には、次のような記事があります。

「魏(ぎ)の曹休(そうきゅう)が洞口(どうこう)まで進軍してきた際、呂範(りょはん)が軍勢を指揮して防戦にあたった。孫匡は定武中郎将(ていぶちゅうろうしょう)だったが、呂範の命令に背いて火を放ち、茅芒(チガヤ)を焼いてしまい、軍用資材の不足を招いた」

「呂範は事情を説明した書面とともに、孫匡を呉郡へ送還した。怒った孫権は、孫匡の一族を孫氏から外して丁氏(ていし)という姓を与え、孫匡を終身禁錮(きんこ)とした」

ですが、この記事については裴松之が誤りを指摘しています。

「本伝には『孫匡は任官される前に死去した。このとき20余歳だった』とあるのに、『江表伝』では『呂範が洞口にあったとき、孫匡は定武中郎将だった』と言っている。定武中郎将だったのなら任官されていなかったわけではない」

「さらに、孫匡の父である孫堅は初平(しょへい)2(191)年に死去した(なお『三国志』〈呉書・孫堅伝〉では、その死を初平3〈192〉年と記している)」

「洞口の戦役は(魏の)黄初(こうしょ)3(222)年のことであり、孫堅の死から32年(31年のような気がするが……)もの年月が経っている。もし孫匡が存命だったとすれば、本伝は『孫匡が死去したとき20余歳だった』とは言えないはずである」

「これは思うに、孫権には別に異母弟の孫朗(孫仁)がいるため、『江表伝』は孫朗のことを孫匡のことと取り違えたのだろう。孫朗の名と官位は『三朝録(さんちょうろく)』や虞喜(ぐき)の『志林(しりん)』に見えている」というもの。

ちなみに孫匡の同母兄の3人は、孫策が175年生まれ、孫権が182年生まれ、孫翊が184年生まれです。

父の孫堅が190年代の初めに亡くなっていますので、もし222年に存命なら、「(孫匡は)亡くなったとき20余歳だった」というのはつじつまが合いません。

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