孫松(そんしょう) ※あざなは子喬(しきょう)

【姓名】 孫松(そんしょう) 【あざな】 子喬(しきょう)

【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん)

【生没】 ?~231年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫翊伝(そんよくでん)』に付された「孫松伝」あり。

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孫翊の息子

父は孫翊だが、母は不詳。

孫松は、204年に死去した孫翊の跡を継いだ。後に射声校尉(しゃせいこうい)・都郷侯(ときょうこう)となったが、231年に死去した。

管理人「かぶらがわ」より

登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。

孫翊の妻としては徐氏(じょし)の名が見えますが、この孫松の生母が彼女なのかはっきりしません。

本伝には孫松が亡くなった後、諸葛亮(しょかつりょう)が兄の諸葛瑾(しょかつきん)に送った手紙の中で、彼の死を悼んでいた様子がうかがえます。

これは、諸葛亮の養子となった諸葛喬(しょかつきょう。諸葛瑾の息子)に孫松のことを聞いていたためだといい、諸葛亮と孫松との間で贈り物のやり取りもあったようです。

本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く張勃(ちょうぼつ)の『呉録(ごろく)』によると、孫松は人との付き合いを大事にし、惜しみなく財貨を用立てたりしたそう。

巴丘(はきゅう)で駐屯軍の司令官を務めていたときには、しばしば陸遜(りくそん)に施策についての意見を聴いていました。

あるとき孫松は小さな過失を犯し、陸遜から面と向かって責められます。孫松の心中は穏やかでなく、それが顔色にも表れました。

陸遜は、孫松の気持ちがいくぶん和らいでから言いました。

「あなたさまは私の見識の狭さを意に介されず、よく意見をお聴きになり、しばしばご下問くださいます。それゆえありのままを申し上げましたが、お顔の色を変えられました。これはどうしたことでございましょう」

すると、孫松は笑って応えます。

「このような過失を犯してしまった自分に腹を立てているだけのこと。どうしてあなたを恨むようなことがあろうか」

このときの孫松の過失に関係があるのかはわかりませんでしたが、『三国志』(呉書・陸遜伝)によると――。

「射声校尉の孫松は、公子の中でも特に孫権(そんけん)にかわいがられており、それをいいことに兵士の訓練をまじめに行っていなかった。陸遜はこのことを採り上げて問題とし、担当官吏を髠刑(こんけい。髪を剃〈そ〉る刑罰)に処した」のだということです。

どうもこの一件が、孫松のいう過失っぽいですね。

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