劉靖(りゅうせい)C ※劉馥(りゅうふく)の息子

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【姓名】 劉靖(りゅうせい) 【あざな】 ?

【原籍】 沛国(はいこく)相県(しょうけん)

【生没】 ?~254年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

優れた統治センスは父譲り。建成郷景侯(けんせいきょうのけいこう)

父は劉馥(りゅうふく)だが、母は不詳。息子の劉熙(りゅうき)は跡継ぎで、劉弘(りゅうこう)も同じく息子。

208年、劉靖は劉馥が死去したためその跡を継いだ。

曹丕(そうひ)の黄初(こうしょ)年間(220~226年)、「黄門侍郎(こうもんじろう)」から「廬江太守(ろこうのたいしゅ)」に昇進。河内(かだい)への転任を経て「尚書(しょうしょ)」に昇進し「関内侯(かんだいこう)」に封ぜられる。やがて「河南尹(かなんのいん)」として転出した。

劉靖のやり方は最初こそ細かくて煩雑に思われたが、最後には民に都合のよいものとなる。こうした様子から父の劉馥の遺風が感じられたという。

母の死に遭い官を離れた時期があったものの、のち「大司農(だいしのう)」や「衛尉(えいい)」まで務め「広陸亭侯(こうりくていこう)」に爵位が進む。封邑(ほうゆう)は300戸だった。

劉靖は上奏を行い儒学の基本的な教えを述べ、太学(たいがく)の現状を問題視して改革を訴える。これは「博士(はくし)」の選考基準を引き上げたうえ、古代の法に則り、二千石(せき)以上の官吏の子弟を15歳でみな太学に入学させるというもの。

そして、黜陟(ちゅっちょく。官吏を昇進させたり退けたりすること)や栄辱の基準を明確にし、経書に通じ品行の修まった者については、これを登用することによって道徳を高め、学業をやめた者については、これを追放することによって懲らしめる。

出来のよい者を登用して出来の悪い者を教えさせれば励みとなり、表面だけ華やかな浮ついた交遊は禁止しなくても自然になくなる。大いなる教化を広め、いまだ服従しない者たちを安んじてやれば、みなよき感化を受け、遠方から来朝してくるようになる。これこそが聖人の教えであり、太平を招く根本であると主張した。

のち劉靖は「鎮北将軍(ちんぼくしょうぐん)」に昇進し「仮節(かせつ)・都督河北諸軍事(ととくかほくしょぐんじ)」となる。彼の働きで国境地帯の守備体制が初めて確立され、要害の地に常備軍を置けるようになった。

さらに劉靖は戻陵渠(れいりょうきょ。運河)の堤防を改修し、薊(けい)の南北の灌漑(かんがい)を図る。また、3年に1年の休耕期間を設けたうえ稲を植えさせ、国境地帯の民に利益をもたらしたという。

254年、劉靖が死去すると、「征北将軍(せいほくしょうぐん)」の官位を追贈され「建成郷侯」に爵位が進められる。「景侯」と諡(おくりな)され、息子の劉熙が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・劉馥伝)によるものです。

なお、『三国志』(魏書・傅嘏伝〈ふかでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く傅玄(ふげん)の『傅子(ふし)』および『三国志』(魏書・夏侯尚伝〈かこうしょうでん〉)に付された「夏侯玄伝(かこうげんでん)」の裴松之注に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』では「劉靖」を「劉静」と表記していました。

父の劉馥は揚州(ようしゅう)で教化や開発にあたり、民からよく慕われた人物でした。その息子である劉靖には、確かに父の遺風を感じさせるところがあります。

採り上げる順番が前後しましたが、彼の息子の劉弘にもまた、父祖の遺風を感じさせるものがありました。家の佳風が子や孫に伝わった一例でしょうね。

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