濮陽興(ぼくようこう) ※あざなは子元(しげん)

【姓名】 濮陽興(ぼくようこう) 【あざな】 子元(しげん)

【原籍】 陳留郡(ちんりゅうぐん)

【生没】 ?~264年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第120回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・濮陽興伝』あり。

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孫休(そんきゅう)との出会いがもたらした幸と不幸

父は濮陽逸(ぼくよういつ)だが、母は不詳。

濮陽興は若いころから士人の間で評判が高く、孫権(そんけん)の時代(229~252年)に上虞県令(じょうぐけんれい)に任ぜられ、昇進を重ねて尚書左曹(しょうしょさそう)となる。

後に濮陽興は五官中郎将(ごかんちゅうろうしょう)として蜀(しょく)へ遣わされ、帰国後に会稽太守(かいけいたいしゅ)となった。このころ琅邪王(ろうやおう。252~258年)の孫休が会稽におり、濮陽興は孫休と深い親交を結ぶ。

258年、孫亮(そんりょう)が孫綝(そんりん)の誅殺に失敗して帝位を追われ、会稽王に貶(おと)されると、代わって孫休が帝位に即く。

濮陽興は召し還されて太常(たいじょう)・衛将軍(えいしょうぐん)に任ぜられ、軍事や国政を統括したうえ、外黄侯(がいこうこう)に封ぜられた。

260年、都尉(とい)の厳密(げんみつ)が丹楊(たんよう)で干拓を行うため、浦里塘(ほりとう。灌漑用〈かんがいよう〉のダム)を築くよう建議する。

孫休の詔(みことのり)を受けて百官で協議したところ、多大な労力を費やしても新たな田地が得られる保証はない、という意見が大勢を占めた。

しかし濮陽興だけは成功すると主張したので、孫休は彼の意見を容れ、各地から兵士や民を集めて工事に取りかからせる。

ところが、工事には莫大(ばくだい)な費用がかかったばかりか、厳しい作業で死者が続出。ついには自殺者まで出て、人々から大いに恨まれた。

262年、濮陽興は丞相(じょうしょう)に昇進し、同じく孫休の寵臣だった左将軍(さしょうぐん)の張布(ちょうふ)と結託して政治を行うも、国内は失望に包まれる。

264年7月、孫休が崩御(ほうぎょ)すると、濮陽興と張布は左典軍(さてんぐん)の万彧(ばんいく)の進言を容れ、皇太子の孫ワン(そんわん。雨+單)ではなく、烏程侯(うていこう)の孫晧(そんこう)を帝位に即けようとした。

孫ワンは孫休の長男。孫晧は孫和(そんか)の息子で、孫休の甥にあたる。

こうして孫晧が帝位を継ぐと、濮陽興は侍中(じちゅう)の官位を加えられ、青州牧(せいしゅうぼく)も兼ねることになった。

そのうち万彧が、孫晧にこう讒言(ざんげん)する。

「濮陽興と張布は前事(孫晧を帝位に即けたこと)を悔いております」

同年11月、濮陽興は朝会のために参内した際、張布ともども捕らえられて広州(こうしゅう)に流される。

だが、配所へ向かう途中で孫晧の指示を受けた者たちに殺害され、三族(父母・妻子・兄弟姉妹。異説もある)も皆殺しとなった。

管理人「かぶらがわ」より

孫休と親しかったことから、丞相にまで上り詰めた濮陽興でしたが――。

目立った治績を上げられなかったばかりか、孫晧を帝位に即けて、呉を亡国へと導くことになりました。

なお『三国志』(呉書・孫休伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く虞溥(ぐふ)の『江表伝(こうひょうでん)』には、以下のような記事がありました。

孫休は病が重くなって話せなくなると、字を書いて濮陽興を呼び、皇太子の孫ワンの拝礼を受けさせます。そして濮陽興の腕(かいな)を取り、孫ワンを指さして後事を託したのだと。

この孫休の思いを、濮陽興はどのように受け止めたのでしょうか?

ただ『三国志』(呉書・孫晧伝)によると、孫休が崩じた時期(264年7月)というのは、263年11月に蜀が魏(ぎ)に滅ぼされてからそれほど経っていなかったうえ、交阯(こうし。交趾)で反乱が起きていたこともあり、呉の人々は不安を募らせ、立派な君主を仰ぎたいと強く願っていた、という背景もあったのだとか。

しかも孫休は30歳で崩じ、このとき孫晧は23歳。孫ワンの生年はわかりませんが、孫晧よりずっと年下だったのでしょう。

かつて万彧は烏程県令を務めたことがあり、もともと孫晧とは親しい関係でした。そういう事情から、万彧は孫晧の見識や態度を称賛し、しばしば濮陽興や張布の耳にも入れていたのです。

濮陽興は万彧の口車に乗せられ、取り返しのつかない判断ミスをしてしまいましたね。

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