邯鄲淳(かんたんじゅん)

【姓名】 邯鄲淳(かんたんじゅん) 【あざな】 子叔(ししゅく)

【原籍】 潁川郡(えいせんぐん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 第220話で初登場。
【演義】 第071回で初登場。
【正史】 登場人物。

古今の字義や書法にも精通する、大儒にして名書家

父母ともに不詳。一名を「竺(じく。邯鄲竺)」ともいう。

邯鄲淳は広範に学問を修め文才もあった。また、『埤倉(ひそう)』『広雅(こうが)』『説文解字(せつもんかいじ)』『古今字指(ここんじし)』に加え、蝌蚪(かと。古代文字)や篆書(てんしょ)など文字に関する分野に詳しかった。

初平(しょへい)年間(190~193年)、三輔(さんぽ。長安〈ちょうあん〉を中心とする地域)から荊州(けいしゅう)へ移り、その地に仮住まいする。

208年、曹操(そうそう)が荊州を平定すると、邯鄲淳は召されて会見し大いに敬われた。

このころ五官中郎将(ごかんちゅうろうしょう。211~217年)の曹丕(そうひ)が広く優れた儒学者を招いており、曹操に上申し、邯鄲淳を「文学(ぶんがく。官名)」として起用したいと願い出る。

ところが、ちょうど臨菑侯(りんしこう。214~221年)の曹植(そうしょく)も邯鄲淳の起用を求めたので、曹操は彼を曹植のもとへ遣ることにした。

邯鄲淳が座に招かれると、曹植は自ら技芸を披露してみせ、衣服や威儀を整え様々な事柄について語り合う。

話題は天地創造に始まり、古今の聖賢や名臣に烈士、文章、賦(ふ)や誄(るい。死者を悼む文)。さらに官職にある者が行うべきことの順序、武力の用い方や兵の動かし方にまで及ぶ。

この間、酒や肉料理が代わるがわる出されたものの、誰も曹植と邯鄲淳の議論に口を挟むことができなかった。日が暮れて邯鄲淳は帰ったが、曹植の才能に感嘆し、知人に「(彼は)天人だ」と語った。

このころまだ曹操は世継ぎを立てておらず、急に曹植のほうに気持ちが傾く。しばしば邯鄲淳が曹植の才能を称揚するので、曹丕は少し不機嫌だったという。

217年、結局は曹丕が(魏〈ぎ〉の)「王太子(おうたいし)」に立てられた。それでも黄初(こうしょ)年間(220~226年)の初め、邯鄲淳は「博士(はくし)・給事中(きゅうじちゅう)」に任ぜられる。

のち邯鄲淳が「投壺賦(とうこのふ)」1千余言を作って献上したところ、曹丕に出来栄えを褒められ、帛(きぬ)1千匹(びき)を下賜された。その後の邯鄲淳については記事がない。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は、『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・王粲伝〈おうさんでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』などによるものです。

また、『三国志』(魏書・劉劭伝〈りゅうしょうでん〉)の裴松之注に引く荀勗(じゅんきょく)の『文章叙録(ぶんしょうじょろく)』および衛恒(えいこう)の『四体書勢(したいしょせい)』には、邯鄲淳が書家としても高名で、衛覬(えいき)や韋誕(いたん)と並び称されていたことや、古代の文字に加え、篆書にも通じていたことが書かれていました。

なお『魏略』の中で「儒宗」として名が挙げられているのは、董遇(とうぐう)・賈洪(かこう)・邯鄲淳・薛夏(せつか)・隗禧(かいき)・蘇林(そりん)・楽詳(がくしょう)の7人です。

学問が廃れゆく時代にあって、邯鄲淳は優れた学者だっただけでなく、書の達人でもあったのですね。

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