劉表(りゅうひょう) ※あざなは景升(けいしょう)

【姓名】 劉表(りゅうひょう) 【あざな】 景升(けいしょう)

【原籍】 山陽郡(さんようぐん)高平県(こうへいけん)

【生没】 ?~208年(?歳)

【吉川】 第031話で初登場。
【演義】 第006回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・劉表伝』あり。

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大州を擁しながらも、座したまま生涯を終える

父母ともに不詳。劉琦(りゅうき)・劉琮(りゅうそう)・劉脩(りゅうしゅう)という3人の息子がいた。

劉表は前漢(ぜんかん)の魯恭王(ろきょうおう。景帝〈けいてい〉の息子の劉余〈りゅうよ〉)に連なる家柄で、帝族のひとりだった。

若いころから儒者として名があり、「八俊(はっしゅん)」「八交(はっこう)」「八顧(はっこ)」「八友(はちゆう)」などと呼ばれた。また身長が8尺(せき)以上もあり、立派な容姿をしていたという。

190年に荊州刺史(けいしゅうしし)に任ぜられると、劉表は州内の豪族の討伐や説得にあたり、地盤を固めていった。

やがて、南は零陵(れいりょう)や桂陽(けいよう)を手中に収め、北は漢川(かんせん)を抑え、その領地は数千里、10万を超える武装兵を抱える一大勢力となる。州内から反徒を一掃すると、学校を開設して広く儒者を求めた。

そして、綦毋闓(きぶかい)や宋忠(そうちゅう)らに『五経章句(ごきょうしょうく)』を編集させ、これを『後定(こうてい)』と称した。

199年から、曹操(そうそう)と袁紹(えんしょう)が官渡(かんと)で対峙(たいじ)した際、どちらに付くか態度を明確にせず、天下の形勢が変化するのを観望。

201年には、劉備(りゅうび)を荊州へ受け入れて厚遇したものの、彼ら主従を本格的に任用することはできなかった。

207年に曹操が烏丸(うがん)討伐に赴いた際、劉備から許(きょ)を急襲するよう勧められたが、このときも決断できず。

翌208年7月、曹操の軍勢が南下を開始すると、8月に病死した。

主な経歴

生年は不詳(142年とも)。漢末に起きた党錮(とうこ)事件では、うまく難を逃れる。

184年3月の大赦で党人(とうじん)がみな許されると、大将軍(だいしょうぐん)の何進(かしん)の掾(えん)を務めた後、北軍中候(ほくぐんちゅうこう)に任ぜられた。

-190年(49歳?)-
1月、山東(さんとう。崤山〈こうざん〉・函谷関〈かんこくかん〉以東の地域。華山〈かざん〉以東の地域ともいう)で諸侯が挙兵し、袁紹を盟主とする反董卓(とうたく)連合軍が結成される。劉表も軍勢を集めて襄陽(じょうよう)に布陣した。

この年、孫堅(そんけん)に迫られて自殺した王叡(おうえい)の後任として、荊州刺史に任ぜられた。

-192年(51歳?)-
?月、南陽(なんよう)にいた袁術(えんじゅつ)が、孫堅と結んで荊州の攻略をもくろむ。しかし孫堅が流れ矢に当たって死去(時期も含めて異説もある)したため、袁術の動きも沈静化した。

6月、李傕(りかく)らが長安(ちょうあん)を陥す。李傕らは劉表を味方に付けたいと考え、彼を鎮南将軍(ちんなんしょうぐん)・荊州牧(けいしゅうぼく)に任じたうえ、成武侯(せいぶこう)に封じ、節(せつ。権限を示すしるし)を与えた。

-193年(52歳?)-
この年、袁術の糧道を断つ。袁術は軍勢をひきいて陳留郡(ちんりゅうぐん)へ進攻し、封丘(ほうきゅう)に駐屯。黒山(こくざん)の残党と匈奴(きょうど)の於夫羅(おふら)らの支援を受けた。

-196年(55歳?)-
7月、献帝(けんてい)が洛陽(らくよう)へ還幸。劉表は使者を立てて貢ぎ物を献じたものの、一方では袁紹と同盟を結ぶ。

この年、長安を離れた張済(ちょうせい)が荊州に侵入したものの、穣城(じょうじょう)攻めの最中に流れ矢が当たって死去した。

劉表はこのように述べる。

「張済は兵糧に困窮して荊州へ来たのに、私が礼を尽くさなかったため、戦うことになってしまった」

そして官吏らの祝辞は受けず、弔辞だけを受けたという。張済配下の兵士は彼の言葉を聞いて喜び、劉表に従った。

-198年(57歳?)-
この年、下邳(かひ)で曹操に敗れた呂布(りょふ)が死去。

-199年(58歳?)-
3月、易京(えきけい)で袁紹に敗れた公孫瓚(こうそんさん)が死去。

6月、袁術が死去。

この年、曹操と袁紹が官渡で対峙すると、袁紹から救援を求める使者がやってくる。劉表は袁紹への救援を承諾したものの、実際に軍勢は出さず、逆に曹操を支援しようともしなかった。

従事中郎(じゅうじちゅうろう)の韓嵩(かんすう)と別駕(べつが)の劉先(りゅうせん)が、こう勧める。

「この状況で中立を保つのは不可能ですから、荊州を挙げて曹操に従われるのが最良でしょう」

蒯越(かいえつ)からも同様のことを勧められたが、やはり決断がつかなかった。迷った末に韓嵩を許へ遣わし、曹操の実情を探らせることにした。

帰国した韓嵩は曹操の威徳をたたえ、息子のひとりを人質として許へ送るよう進言。劉表は腹を立てて韓嵩を処刑しようとしたが、ほどなく他意がないとわかると取りやめた。

この年、廬江(ろこう)で劉勲(りゅうくん)を撃破した孫策(そんさく)の軍勢が、沙羡(さい)へ侵攻してくる。配下の黄祖(こうそ)が孫策に敗れた。

-200年(59歳?)-
4月、孫策が急死し、弟の孫権(そんけん)が跡を継ぐ。

-201年(60歳?)-
この年、荊州に逃亡してきた劉備主従を受け入れる。彼らを厚遇したものの、本格的に任用することはできなかった。

-202年(61歳?)-
5月、袁紹が死去。

-203年(62歳?)-
8月、曹操自ら軍勢をひきい、西平(せいへい)までやってくる。しかし、ほどなく引き揚げていった。

-207年(66歳?)-
この年、曹操が烏丸討伐に赴く。このとき劉備から、曹操の隙を突き、彼の本拠地の許を攻めるよう勧められたが容れなかった。

-208年(67歳?)-
春、孫権の攻撃を受け、配下の黄祖が戦死。

7月、曹操が軍勢をひきいて南下を開始。

8月、曹操軍が到着する前に病死。

管理人「かぶらがわ」より

劉表は、外目には温厚な学者に見えたものの、内心は猜疑(さいぎ)する気持ちが強かったと言います。付き合いにくい感じですね。

そして先に滅んだ袁紹と同じく、彼もまた長男の劉琦ではなく、次男の劉琮をかわいがりました。こうして跡を継いだ劉琮でしたが、戦うことなく曹操に降伏してしまいます。

ですが、これは荊州にとって良かったのでは、とも思います。結果的に袁氏のような跡目争いにまで発展しなかったので……。

戦乱の時代でなければ、劉表は朝廷の大臣として平穏に暮らせたかもしれません。時代の巡り合わせが悪かった、学者肌な人物でした。

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