呂布(りょふ) ※あざなは奉先(ほうせん)

【姓名】 呂布(りょふ) 【あざな】 奉先(ほうせん)

【原籍】 五原郡(ごげんぐん)九原県(きゅうげんけん)

【生没】 ?~198年(?歳)

【吉川】 第020話で初登場。
【演義】 第003回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・呂布伝』あり。

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天下無双の豪傑も、思慮に欠け、大成せず

父母ともに不詳。娘がいたことがうかがえる。

初め呂布は幷州刺史(へいしゅうしし)の丁原(ていげん)に仕え、主簿(しゅぼ)として目をかけられた。

189年4月に霊帝(れいてい)が崩御(ほうぎょ)すると、大将軍(だいしょうぐん)の何進(かしん)の要請に応じた丁原に付き従い、軍勢をひきいて洛陽(らくよう)へ上る。

同年8月、何進が中常侍(ちゅうじょうじ)の段珪(だんけい)らに謀殺されると、代わって董卓(とうたく)が実権を握った。

呂布は董卓の誘いを受けて、丁原を殺害。騎都尉(きとい)に任ぜられたうえ、董卓と父子の契りを結んだ。

呂布は弓馬の術に優れ、腕力も抜群だったため、「飛将(ひしょう)」と呼ばれていた。やがて中郎将(ちゅうろうしょう)に昇進し、都亭侯(とていこう)に封ぜられた。

192年4月、司徒(しと)の王允(おういん)らの計画に加担して、董卓を殺害。

同年5月に李傕(りかく)らが長安(ちょうあん)へ攻め寄せると、呂布は6月に長安を離れる。袁術(えんじゅつ)に受け入れを断られた後、袁紹(えんしょう)や張楊(ちょうよう)のもとを転々とした。

194年、曹操(そうそう)が再度の陶謙(とうけん)討伐に赴いた際、張邈(ちょうばく)の弟の張超(ちょうちょう)が、曹操配下の陳宮(ちんきゅう)・許汜(きょし)・王楷(おうかい)らと結託して背いた。

張邈は陳宮の進言に従い、呂布を迎えて兗州牧(えんしゅうぼく)とし、濮陽(ぼくよう)に立て籠もった。呂布は徐州から戻ってきた曹操と濮陽で交戦し、100日以上も対峙(たいじ)する。

このころ干ばつと蝗(イナゴ)の被害により、人々が互いに食らい合うほど悲惨な状況だった。その後、呂布は山陽(さんよう)に駐屯。

翌195年、定陶(ていとう)と鉅野(きょや)で曹操に敗れ、さらに東へ逃げて、徐州(じょしゅう)の劉備(りゅうび)を頼る。

翌196年、劉備が袁術と交戦している間に、呂布が下邳(かひ)を奪い取る。

戻ってきた劉備が、そのまま徐州に留まることになったので、彼を小沛(しょうはい)に駐屯させた。呂布は徐州刺史(じょしゅうしし)を称した。

しかし、ほどなく劉備が1万余の兵を集めたことを問題視し、小沛を攻める。敗れた劉備は曹操のもとに身を寄せた。

198年、呂布は再び曹操に背いて袁術に味方し、高順(こうじゅん)を遣って沛の劉備を攻めさせ、これを撃破。曹操は夏侯惇(かこうとん)を救援に差し向けたが、これも高順が撃破した。

この後、曹操自ら討伐に乗り出してくる。呂布は下邳で3か月の包囲を受けた末に捕らえられ、12月に処刑された。

主な経歴

生年は不詳。

-189年-
4月、霊帝が崩御し、少帝(しょうてい)が即位。大将軍の何進は、袁紹らと協力して宦官の誅滅を計画したものの、何太后(かたいこう)の許可が得られなかった。

そこで何進は、各地の群雄を洛陽に呼び寄せようとし、要請に応じた丁原も軍勢をひきいて洛陽へ上った。このとき丁原は執金吾(しつきんご)に任ぜられた。

8月、何進が中常侍の段珪らにおびき出され、宮中で殺害される。

8月、董卓の誘いを受けて丁原を殺害。董卓は呂布を騎都尉に任じたうえ、父子の契りを結んだ。

9月、董卓が少帝を廃して弘農王(こうのうおう)に貶(おと)し、陳留王(ちんりゅうおう)の劉協(りゅうきょう)を帝位に即ける(献帝〈けんてい〉)。

-190年-
1月、山東(さんとう。崤山〈こうざん〉・函谷関〈かんこくかん〉以東の地域。華山〈かざん〉以東の地域ともいう)で諸侯が挙兵し、袁紹を盟主とする反董卓連合軍が結成される。

2月、董卓が献帝に迫り、長安への遷都を強行。洛陽の住民を追い立てて、ことごとく関中(かんちゅう)へ移らせる。一方で董卓は洛陽に留まり、畢圭苑(ひっけいえん)に駐屯した。

-191年-
4月、董卓が長安へ入城。

-192年-
4月、司徒の王允らの計画に加担し、自ら剣を振るって董卓を殺害。功により奮武将軍(ふんぶしょうぐん)に任ぜられ、節(せつ。権限を示すしるし)を授けられた。加えて三公と同じ儀礼が許され、爵位も温侯(おんこう)に進んだ。

5月、李傕らが結託して長安へ攻め寄せる。

6月、李傕らを防ぎ止めることができず、数百騎とともに武関(ぶかん)を出て袁術を頼る。しかし袁術に受け入れを断られたため、北方の袁紹を頼る。

この年?、袁紹とともに常山(じょうざん)の張燕(ちょうえん)を攻める。呂布は敵陣に突入し、張燕の軍勢を撃破した。

ところが、呂布が兵の増員を求めたり、配下の将兵が略奪を働いたりしたため、袁紹から疎まれるようになった。

呂布のほうでも袁紹の気持ちに気づき、暇(いとま)を乞う。袁紹は報復を恐れ、呂布を闇討ちしようとしたが失敗。このことが明るみに出ると、呂布は河内(かだい)へ逃走した。

-193年-
この年、張楊と合流。袁紹は軍勢を出して呂布を追撃させたが、みな彼を怖がり、そばに寄る者はいなかった。

-194年-
この年、曹操が再度の陶謙討伐に赴いた際、張邈の弟の張超が、曹操配下の陳宮・許汜・王楷らと結託して背いた。張邈は陳宮の進言に従い、呂布を迎えて兗州牧とし、濮陽に立て籠もる。

ほとんどの郡県はこの動きに呼応したが、鄄城(けんじょう)・東阿(とうあ)・范県(はんけん)だけは曹操に背かず、守りを固めた。

徐州から戻ってきた曹操と濮陽で交戦し、100日以上も対峙。このころ干ばつと蝗の被害により、人々が互いに食らい合うほどの悲惨な状況だった。乗氏(じょうし)で李進(りしん)に敗れた後、東へ向かい、山陽に駐屯。

-195年-
春、定陶で曹操に敗れる。

夏、鉅野にいた配下の薛蘭(せつらん)と李封(りほう)が曹操の攻撃を受ける。自ら救援に駆けつけたものの敗れ、薛蘭は斬られてしまう。

やむなく呂布は徐州の劉備を頼る。張邈は呂布に付き従う一方、弟の張超に命じ、家族とともに雍丘(ようきゅう)を守らせた。

12月、曹操が雍丘を陥し、張超が自殺。城にいた張邈の三族(父母・妻子・兄弟姉妹。異説もある)も処刑された。

この年、袁術に救援を頼みに行く途中、張邈が配下の兵士に殺害された。

-196年-
この年、劉備が袁術と交戦している間に、呂布が下邳を奪い取る。

帰還した劉備は呂布のもとに留まり、小沛に駐屯することになった。呂布は勝手に徐州刺史を称した。

この年、袁術が将軍の紀霊(きれい)らに歩騎3万を預け、小沛の劉備を攻撃するよう命じた。劉備の救援要請に応え、呂布は自ら1千の歩兵と200の騎兵をひきいて出陣。沛の西南1里に軍営を置くと、紀霊らを食事に招いた。

そこで轅門(えんもん。陣中で車の轅〈ながえ〉を向かい合わせ、門のようにしたもの)に掲げた戟(げき)の小枝に一矢を命中させ、戦闘を止めることに成功した。

しかし、ほどなく劉備が1万余の兵を集めたことを問題視し、小沛を攻める。敗れた劉備は曹操のもとに身を寄せた。

このあたりの劉備がらみの記事には、解釈に迷う部分が残った。

-197年-
この年、娘と袁術の息子との結婚を承諾。袁術は韓胤(かんいん)を使者に立て、帝位に登る意向を伝えさせ、併せて呂布の娘を迎えに行かせた。

沛国相(はいこくしょう)の陳珪(ちんけい)は、呂布と袁術が姻戚になれば、国家の禍いになると心配。そこで呂布を言葉巧みに説得して翻意させた。

すでに呂布の娘は道中にあったが、後を追わせて連れ戻し、袁術の息子との婚約を破棄。韓胤に枷(かせ)を付けて許(きょ)へ送り届けた。陳珪は息子の陳登(ちんとう)を曹操のもとへ遣ろうとしたが、呂布の許しが得られなかった。

そのころ曹操の使者が着き、呂布を左将軍(さしょうぐん)に任ずる旨を伝えてきた。呂布は大喜びし、すぐに陳登に上表文を託すと、曹操に謝意を伝えるよう命じた。

陳登は曹操に会い、こう述べた。

「呂布は武勇だけの無計画な男で、軽々しく人に付いたり離れたりしております。早く始末する手立てをお考えになるべきです」

曹操も同意し、陳登に、内密で兵士を取りまとめるよう命じた。陳登は広陵太守(こうりょうたいしゅ)に任ぜられ、陳珪の俸禄も中二千石(せき)に引き上げられた。

呂布は、陳登の仲介で徐州牧(じょしゅうぼく)の地位を要求していたが、これがかなわないまま彼が戻ってくると、激怒して戟で机を叩き切って言った。

「お前の父は曹操に協力して、わが娘と袁術の息子との結婚を破棄するよう勧めておきながら、私が求めたものは何ひとつ手に入らなかった。ところが、お前たち親子はそろって高位に昇りおった。私はお前たちに売られたのだな!」

陳登は顔色を変えず、呂布を諭して言った。

「私は曹公に会い、こう申し上げました。『呂将軍を扱うのは、ちょうど虎を飼うのと同じで、たらふく肉をあてがっておかねばなりません。もし腹を空かせば、人を食らってしまうでしょう。ですから呂将軍に徐州をお与えください』と」

「すると曹公は私におっしゃいました。『いや、お前の言うことは間違っている。呂将軍を扱うのは、ちょうど鷹(タカ)を飼うのと同じで、腹が空けば役立つが、満腹になれば飛んでいってしまうのだ』と」

これを聞き、呂布の気持ちはやっとほぐれた。

息子の婚約を破棄された袁術は、激怒して韓暹(かんせん)や楊奉(ようほう)らと結び、将軍の張勲(ちょうくん)を遣って呂布を攻めさせた。

呂布は陳珪の計に従い、韓暹と楊奉のもとへ使者を遣り、自分に協力して袁術軍を攻撃するよう説得。ありったけの軍需品を提供することを申し出た。韓暹と楊奉は呂布の提案を受け入れたため、張勲の軍勢を大破することができた。

-198年-
?月、呂布は再び曹操に背いて袁術に味方し、高順を遣って沛の劉備を攻めさせ、これを撃破。曹操は夏侯惇を救援に差し向けたが、これも高順が撃破した。

?月、曹操自ら呂布討伐に乗り出し、下邳に到着。呂布は曹操から手紙を受け取ると、降伏することを考えたが、陳宮らは反対した。

そこで袁術に救援を求める使者を遣わす一方、自ら1千余騎をひきいて出撃したが、敗れて逃げ帰った。

この後は城を守ったまま、打って出ようとしなくなった。袁術もまた呂布を救うことができなかった。

呂布は勇猛だったが、無計画で猜疑心(さいぎしん)が強く、身内の者をまとめることもできず、ただ配下の将軍だけを信頼していた。

だが、将軍たちはそれぞれ思うところが違っていて、疑心暗鬼となり、そのせいで戦うたびに敗れることが多かった。

曹操が塹壕(ざんごう)を掘って3か月も包囲を続けたため、下邳の城内では上下の心が離ればなれになった。やがて将軍の侯成(こうせい)・宋憲(そうけん)・魏続(ぎしょく)らが陳宮を縛り上げ、軍勢をひきいて降伏してしまう。

12月、呂布は側近を連れて白門楼(はくもんろう)に登ったが、曹操軍の包囲が厳しくなると、ついに楼を下りて降伏した。

曹操は呂布の命乞いを聞き入れず、縊(くび)り殺すよう命ずる。彼は陳宮や高順らとともに、さらし首にされて許へ送られ、後に埋葬された。

管理人「かぶらがわ」より

武芸者としては天下第一だった呂布。これである程度の学識を備えていたら、どこまで伸びていたのだろうかと思わせる、実に惜しい逸材でした。

まぁ、こういう性格だと、仮に下邳で曹操に助命されたとしても、すぐに騒動を起こすのでしょうね。呂布自身、曹操配下の一部将では終わりたくなかったでしょうし……。

とはいえ吉川『三国志』や『三国志演義』でも、序盤でひときわ輝きを放っているのが呂布。例えば本伝には、呂布と董卓の以下のような話がありました。

「いつも呂布は董卓の護衛を務めていたが、あるとき董卓がちょっとしたことから気分を害し、小さな戟を彼に投げつけたことがあった」

「呂布は身をかわし、謝ったため、董卓の気持ちもほぐれた。だが、このことから呂布は董卓に恨みを抱くようになった」

「また、呂布は董卓の奥御殿も警固していたが、そこの侍女と密通したことがあった。これが露見するのを恐れ、内心では落ち着かなかった」

「これより先、司徒の王允は、呂布が自分と同郷で武勇に優れていたため、丁重に扱っていた。呂布が王允を訪問したとき、董卓から戟を投げつけられた話をした」

「このとき王允は、僕射(ぼくや)の士孫瑞(しそんずい)と董卓暗殺の密計を巡らせていたので、呂布に打ち明けて内応の承諾を得た。こうして呂布は王允らの計画に加担し、自ら剣を振るって董卓を殺害した」

吉川『三国志』や『三国志演義』で有名な美女の貂蟬(ちょうせん)は、創作された人物ですが、このあたりを元ネタにした話の膨らませ方には感心させられます。

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