張邈(ちょうばく)B ※張超(ちょうちょう)Bの兄

【姓名】 張邈(ちょうばく) 【あざな】 孟卓(もうたく)

【原籍】 東平郡(とうへいぐん)寿張県(じゅちょうけん)

【生没】 ?~195年(?歳)

【吉川】 第025話で初登場。
【演義】 第005回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・呂布伝(りょふでん)』に付された「張邈伝」あり。

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俠気(きょうき)に富む長者も、親友を裏切って死す

父母ともに不詳。張超(ちょうちょう)は弟。

張邈は若いころから俠気があり、困窮者への援助を惜しまなかったため、世人から「八廚(はっちゅう)」のひとりとして称えられた。彼のもとには多くの人々が身を寄せ、曹操(そうそう)や袁紹(えんしょう)とも友人だった。

張邈は三公の府から召し出され、成績優秀として騎都尉(きとい)に任ぜられたあと、189年には陳留太守(ちんりゅうのたいしゅ)に栄転した。このとき董卓(とうたく)が朝廷の実権を握っていたが、翌190年、張邈は曹操とともに真っ先に義勇軍を起こす。

董卓配下の徐栄(じょえい)との卞水(べんすい)の戦いでは、配下の衛茲(えいじ)に兵を預けて曹操に随行させた。

袁紹は反董卓連合軍の盟主の座に就くと、得意になり鼻にかける様子が見られるようになった。そこで張邈は正論をもって責めた。

袁紹は気分を害し、曹操に張邈を殺害させようとしたが、曹操は承知しなかった。張邈はこのことを知ると、曹操に一層の恩義を感ずるようになった。

193年に曹操が徐州(じょしゅう)へ陶謙(とうけん)討伐に赴いたとき、家族にこう言い残した。

「もし私が帰ってこなかったら、孟卓(張邈のあざな)のもとへ身を寄せろ」

それほどふたりは親密な関係だった。

呂布が袁紹のもとを離れ張楊(ちょうよう)を頼っていったとき、途中で張邈のところへ立ち寄った。ふたりは別れ際に手を取り合って誓いを交わしたが、袁紹はこの話を聞くとひどく腹を立てた。

張邈は、曹操が袁紹のことを考え、結局は自分を攻撃してくるのではないかと恐怖を抱き、内心では不安な思いをしていた。

翌194年、再び曹操が陶謙討伐に赴いた際、弟の張超が陳宮(ちんきゅう)らと結託して曹操に背いた。張邈も陳宮の進言に従い、呂布を迎えて兗州牧(えんしゅうのぼく)とし、濮陽(ぼくよう)に立てこもった。

翌195年、呂布が定陶(ていとう)や鉅野(きょや)で曹操に敗れ、さらに東へ逃げて劉備(りゅうび)を頼った。張邈は呂布に付き従う一方、張超に命じ、家族とともに雍丘(ようきゅう)を守らせた。

同年12月、曹操が雍丘を陥し張超が自殺。城にいた張邈の三族(父母・妻子・兄弟姉妹、異説もある)も処刑された。そしてこの年、張邈は袁術(えんじゅつ)に救援を頼みに行く途中、配下の兵士に殺害された。

管理人「かぶらがわ」より

張邈はいずれかの段階で、ともに友人だった曹操か袁紹のどちらに付くのか、という決断を迫られていたと思います。しかし、このふたりより呂布を選ぶとは……。曹操も袁紹も信じきることができなかったということでしょうか?

このふたりに背を向けて、呂布とともに生き残っていこうというのは、より困難な道に思えるのですけどね……。

ただ張邈には、呂布に付き従って各地を転々としたり、彼のために袁術へ救援を頼みに行った途中の最期であることなど。一度決めた方針への潔さは感じられました。

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人物データ 群雄諸侯
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今日も三国志日和 – 史実と創作からみる三国志の世界 –

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