郭嘉(かくか)

【姓名】 郭嘉(かくか) 【あざな】 奉孝(ほうこう)

【原籍】 潁川郡(えいせんぐん)陽翟県(ようたくけん)

【生没】 170~207年(38歳)

【吉川】 第042話で初登場。
【演義】 第010回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・郭嘉伝』あり。

予言者も真っ青の鋭い読み

父母ともに不詳。息子の郭奕(かくえき)は跡継ぎ。

初め郭嘉は北方の袁紹(えんしょう)のもとへ行ったが、大業を成し遂げる人物ではないと見抜いて立ち去った。

それ以前のこと、潁川の戯志才(ぎしさい)は計策に優れ、曹操(そうそう)から大いに重んぜられていたが、彼は早く亡くなってしまう。

曹操は荀イク(じゅんいく)に手紙を遣り、戯志才が亡くなってから計略について相談する者がいないと嘆き、汝(じょ。汝南〈じょなん〉)や潁(潁川)の地には優れた人物が多いとも言い、戯志才の代わりが務まるような者を求めた。そこで荀イクが郭嘉を推薦したところ、曹操はさっそく召し寄せ、天下のことを議論する。

荀イク、郭嘉ともに潁川郡の出身。

そして曹操は言った。

「予に大事を完成させてくれるのは間違いなくこの者だ」

退出した後、郭嘉も喜びを表して言った。

「私にとって真の主君だ」

196年、曹操の上表により、郭嘉は「司空軍祭酒(しくうぐんさいしゅ)」に任ぜられる。

曹操が「司空」を務めていた期間は196~208年。

この年、徐州(じょしゅう)を失った劉備(りゅうび)が曹操のもとに身を寄せる。郭嘉は程イク(ていいく。日+立)とともに劉備の殺害を進言したが、曹操は聞き入れなかった。

郭嘉が劉備の殺害に反対した、という異説もある。

198年、曹操は徐州の呂布(りょふ)討伐に乗り出し3戦を経る。呂布は下邳(かひ)へ退却して守りを固めた。

このとき曹操軍の士卒が疲弊し、曹操もいったん軍を引き揚げたいと考える。しかし郭嘉は反対し、荀攸(じゅんゆう)とともに城を急襲するよう進言。その結果、同年12月に呂布を捕らえて処刑することができた。

翌199年、曹操は劉備を徐州へ派遣し袁術(えんじゅつ)を迎え撃たせる。この時も郭嘉は程イクとともに諫め、劉備に兵を貸すことへの懸念を述べた。曹操は後悔し、劉備を追わせたものの間に合わず、そのうち袁術も病死する。

徐州に行き着いた劉備は、曹操配下の徐州刺史(じょしゅうしし)の車胄(しゃちゅう)を殺害したうえ兵を挙げて背いた。

曹操は早いうちに劉備を討伐したいと考えたが、軍を出した後に袁紹に背後を突かれると、進んでは戦うことができず、引いては根拠地を失う結果を招くと、みな心配する。曹操が決めかねて郭嘉に諮ると、彼はこう答えた。

「袁紹はグズで、ためらうことが多く、すぐに攻めてくることはないでしょう。劉備は兵を起こしたばかりなので、人々は心服しておりません。急いで彼を攻めれば必ず勝つことができます。この好機を逃してはなりません」

翌200年、曹操は劉備討伐のため徐州へ向かい、これを大破。劉備は袁紹のもとへと逃走したが、曹操は残された劉備の妻子を捕らえ、下邳で配下の関羽(かんう)も降した。

この年、曹操と袁紹が官渡(かんと)で対峙(たいじ)。先に江東(こうとう)を平定していた孫策(そんさく)は許都(きょと)の襲撃を企てる。これを聞き知った人々は恐れを抱いたが、郭嘉の予想は違った。

孫策は江東を併呑したばかりであるうえ、これまで数多くの英雄や豪傑を殺している。それなのに、こういったことを軽く考え身辺を警戒していない。もし急に刺客が襲えば、たったひとりでも十分に相手になれる。孫策は必ず匹夫の手に掛かって死ぬだろうと。

郭嘉の予想どおり、孫策は長江(ちょうこう)を渡らないうち、許貢(きょこう)の食客に殺されてしまった。

その後、郭嘉は曹操に付き従い、袁紹を撃破し死に追いやる(202年のこと)。次いで黎陽(れいよう)にいる袁譚(えんたん)と袁尚(えんしょう)の討伐にも付き従い、連戦して勝利を重ねた。

曹操配下の将軍(しょうぐん)たちは、このまま勝ちに乗じて追撃すべきだと考える。だが郭嘉は、袁紹が後継者を立てないまま死んだことに触れ、郭図(かくと。袁譚派)や逢紀(ほうき。袁尚派)といった謀臣がそれぞれに付いているから、袁兄弟の間で争いが起こると予想。

事を急げば彼らは助け合うが、そうしなければ後に争いの心を起こすとし、いったん南方の荊州(けいしゅう)へ向かい劉表(りゅうひょう)を討伐するふりをし、彼らの変化を待つほうがよいと進言。曹操もこれに同意し、軍を南へと転ずる。

翌203年、曹操軍が西平(せいへい)に着いたころ、袁兄弟は冀州(きしゅう)の主権を巡って争い合い、袁譚が袁尚に撃破された。

袁譚は平原(へいげん)へ敗走すると、配下の辛毗(しんぴ)を遣り曹操に降伏を願い出る。曹操は引き返し袁譚を助け、郭嘉も付き従い鄴(ぎょう)を攻略(翌204年8月のこと)した。

翌205年、さらに南皮(なんぴ)で袁譚も討ち破り、ついに冀州が平定される。郭嘉は「洧陽亭侯(いようていこう)」に封ぜられた。

翌206年、袁熙(えんき)と袁尚が烏丸族(うがんぞく)のもとへ逃げ込むと、翌207年、曹操は討伐のため遠征を検討。ところが配下の多くの者は、遠征中に劉表が劉備を用い、許都を襲うのではないかと不安視する。

201年、汝南で曹操軍に敗れた後、劉備は劉表のもとに身を寄せた。

ここで郭嘉は、烏丸族は遠い地にあるのをよいことに、防備を設けていないだろうと述べ、劉表は座って議論するだけの人物にすぎず、劉備を重く用いれば制御できないし、軽く用いれば劉備が働こうとしないと指摘。国を空っぽにし北方へ遠征しても心配はないと断言した。

曹操は遠征に踏み切ったが、易県(えきけん)まで来ると郭嘉が進言。

「軍事は神速を尊ぶもの。いま千里(せんり)の彼方に敵を襲撃すれば輜重(しちょう)が増え、有利な状況で駆けつけることは難しいと思われます。そのうえ敵がこのことを聞けば、必ず防備を整えます。ここは輜重を留め置かれ、軽装の兵をして通常の倍の速度で進撃させ、敵の不意を突くほうがよろしいでしょう」

そこで曹操はひそかに盧龍塞(ろりょうさい)を出て、真っすぐ烏丸の本拠地を目指す。こうして烏丸族を大破し、蹋頓(とうとつ)や配下の名王(めいおう。諸部族の有力者)たちを斬る。袁熙と袁尚は遼東(りょうとう)へ逃走した。

郭嘉は深く計略に通じ、物事の真実をつかんでおり、曹操はこう言っていた。

「奉孝(郭嘉のあざな)だけが私の考えをよくわきまえている」

郭嘉は柳城(りゅうじょう)から帰還するや危篤となり、曹操からの見舞いの使者が入れ代わり立ち代わり訪れた。ほどなく38歳で死去すると、曹操は葬儀に臨席して深く悲しみ、荀攸らに向かって言った。

「諸君らはみな私と同年配だ。ただ奉孝だけが最も若かった。天下のことが済めば、彼に後事を託そうと思っていたが早世してしまった。これも運命だろうか……」

曹操の上奏により亡き郭嘉に800戸が加増され、以前と合わせて封邑(ほうゆう)は1千戸となる。さらに「貞侯(ていこう)」と諡(おくりな)され息子の郭奕が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く傅玄(ふげん)の『傅子(ふし)』によると、郭嘉が仕えて間もないころ、曹操から、袁紹を討伐したいと考えているが、力では相手にならないと相談されたことがあったそう。

このとき郭嘉は「袁紹には10の敗因があり、殿には10の勝因がございます」と答えたうえ、これをひとつずつ説明しています。

(01)袁紹は面倒な礼式や作法を好んでいる。だが、殿は自然の姿に任せておられる。これは道(法則)において優れた点である。

(02)袁紹は逆(天子〈てんし〉に刃向かう態度)をもって行動している。だが、殿は順(天子に従う態度)をもって天下を従えておられる。これは義(正義)において優れた点である。

(03)袁紹は寛(締まりがない様子)をもって寛を救おうとしている。だが、殿は猛(厳しい様子)をもって寛をただしておられる。これは政(政治)において優れた点である。

(04)袁紹は寛大に見えて猜疑心(さいぎしん)が強く、人を用いても信用しきれない。信任しているのは親戚や子弟ばかりである。だが、殿は簡略かつ心の働きも明晰(めいせき)で、人を用いても疑われない。ふさわしい才能があるかどうかだけが問題で、親戚と他人を分け隔てされない。これは、度(度量)において優れた点である。

(05)袁紹は策謀だけ多くて決断力がなく、時機を誤り失敗している。だが、殿は方策が見つかるとすぐに実行され、変化への対応に行き詰まることがない。これは謀(策謀)において優れた点である。

(06)袁紹は累代に積み重ねたものを基礎とし、高尚な議論と謙虚な態度で評判を得ており、議論を好み、外見を飾る者の多くが彼のもとに身を寄せた。だが、殿は真心をもって他人を礼遇され誠意を貫いておられる。うわべだけ飾ろうとはなさらず、つつましさをもって下の者を従えられ、功ある者には賞賜を惜しまれない。そのため、誠実で将来を見通す識見を持ち、中身のある者たちはみな殿のお役に立ちたいと熱望している。これは、徳(人徳)において優れた点である。

(07)袁紹は他人が飢えたり凍えているのを見ると哀れむ気持ちを表すが、自分の目に触れないことには考えが及ばない。だが、殿は眼前の小事をないがしろにされることはあっても、大事になると四海の内の人々と接して恩愛を施され、すべて期待以上である。自分の目に触れないことにさえ周到に考慮され処置をなさる。これは仁(愛情)において優れた点である。

(08)袁紹は配下の重臣らが権力を争い、讒言(ざんげん)により混乱している。だが、殿は道義をもって下の者たちを統べられ、水が染み込むように讒言が染み込むことはない。これは明(聡明〈そうめい〉)において優れた点である。

(09)袁紹は好悪の判断基準がはっきりしていない。だが殿は、よしとされれば礼をもって推し進められ、よしとされないなら法をもって正される。これは文(法制)において優れた点である。

(10)袁紹は虚勢を張ることを好むが、軍事の要点を知らない。だが、殿は少数をもって多数に勝たれ、用兵は神のようである。味方の将兵はそれを頼りとし、敵は恐れている。これは武(軍事)において優れた点である。

以上、概要はこのような感じ。かなりの言われっぷりですが、確かに袁紹も比較対象が曹操では厳しいでしょうか……。

そして郭嘉は、袁紹が北方の公孫瓚(こうそんさん)を攻めている間に、東方へ行き呂布を捕らえるのがよいと勧めたのだと。

また本伝には、「郭嘉の死後、(208年に)曹操は荊州を討伐し、巴丘(はきゅう)で疫病の流行に遭い軍船を焼いた(『赤壁〈せきへき〉の戦い』での敗戦)が、このとき嘆息して言った。『郭奉孝がおれば、私をこのような目に遭わせなかったであろうに……』」とあります。

加えて本伝の裴松之注に引く傅玄の『傅子』には、「さらに曹操は言った。『哀しいかな奉孝。痛ましいかな奉孝。惜しいかな奉孝』」ともありました。

的確な状況分析で有用な進言を重ねた郭嘉ながら、寿命だけはどうにもならず……。曹操の嘆きがうなずける、名参謀のあまりに早すぎる死でした。

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