時苗(じびょう) ※あざなは徳冑(とくちゅう)

【姓名】 時苗(じびょう) 【あざな】 徳冑(とくちゅう)

【原籍】 鉅鹿郡(きょろくぐん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

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清廉潔白かつ厳格ながら、実は根に持つタイプ

父母ともに不詳。

時苗は若いころから清廉潔白で悪を憎んだ。

建安(けんあん)年間(196~220年)に丞相府(じょうしょうふ)の官吏となり、やがて寿春県令(じゅしゅんけんれい)に転ずる。任地では彼の威令が行き渡り、住民もよく従ったという。

曹操(そうそう)が丞相を務めていた期間は208~220年。

寿春には揚州(ようしゅう)の行政府が置かれていて、そのころ蔣済(しょうせい)が治中(ちちゅう)を務めていた。

初め時苗が赴任した際、蔣済を訪ねて名刺を差し出す。だが蔣済は酒好きで、その日も酔っていたため面会できなかった。

時苗は恨みを含んで帰ると、木を彫って人形を作り、「酒徒(酒好き)蔣済」と書き付けて土塀の下に置く。そして朝夕、この人形を射た。

州や郡では不謹慎だと感じたものの、時苗の普段の行いが人並み優れていたため、どうすることもできなかった。

また、時苗は赴任したとき、粗末な車を黄色の牝牛(めうし)に引かせ、麻の布団と袋だけを持ってきた。1年余りの在任期間中、この牝牛が1頭の子牛を生む。

寿春を去る折、時苗は主簿(しゅぼ。官名)に言った。

「私が来たときこの子牛はいなかった。淮南(わいなん)で生まれたのだから淮南のものだ」

すると主簿らはみな言った。

「畜類は父がわかりませんので、母(時苗の牝牛)に付くのが当然です」

しかし、あくまで時苗は聞き入れない。当時の人々は極端すぎる考え方だと思ったが、このことにより彼の名は聞こえ渡る。

その後、時苗は中央へ戻って太官令(たいかんれい)となり、鉅鹿郡の中正(ちゅうせい)を務めた。

時苗は9等級で人物評価をする(220年に施行された、陳羣〈ちんぐん〉の建議にかかる「九品官人法〈きゅうひんかんじんほう〉」)にあたり、寛大な判定をしなかった。

さらに欠点を採り上げる場合は、ずっと前のことでも容赦しなかった。

時苗が太官令となって数年を経ると、厳しく取り締まらなくても治まるようになった。

後に典農中郎将(てんのうちゅうろうしょう)に昇進し、曹芳(そうほう)の正始(せいし)年間(240~249年)に70余歳で病死(時期は不明)したという。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・常林伝〈じょうりんでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』によるもの。

『魏略』では、常林・吉茂(きつぼう)・沐並(もくへい)・時苗の4人をまとめて「清介伝(せいかいでん。心が清らかなため世間と合わず、孤独な様子〈の人々を採り上げた伝〉)」としているそうです。

時苗は以前のことを根に持つタイプ。蔣済のほうは(242年に)太尉(たいい)に昇った後も、かつて非難されたからと時苗を憎んだりはしませんでしたが――。時苗は蔣済が高官になったからと、意を曲げて屈したりしなかったともありました。

決して悪い人ではないのでしょうけど、やはり時苗とは付き合いにくい感じがしますね。

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