【姓名】 甘氏(かんし) ※名とあざなは不詳
【原籍】 沛郡(はいぐん)沛県(はいけん)
【生没】 ?~208か209年(?歳)
【吉川】 第053話で初登場。
【演義】 第014回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・甘皇后伝(かんこうごうでん)』あり。
蜀(しょく)の劉備(りゅうび)の側室から正室か? 昭烈皇后(しょうれつこうごう)
父母ともに不詳。劉備との間に劉禅(りゅうぜん)を儲けた。
194年、甘氏は、劉備が豫州刺史(よしゅうしし)として小沛(しょうはい)に住んでいたとき、側室に迎えられた。
201年、劉備に付き従って荊州(けいしゅう)の劉表(りゅうひょう)を頼る。その後、207年に劉禅が生まれた。
208年、劉表が死去。跡を継いだ劉琮(りゅうそう)が曹操(そうそう)に降伏したため、甘氏は劉備とともに樊城(はんじょう)から逃げた。
しかし、劉備が当陽県(とうようけん)の長坂(ちょうはん)で曹操軍に追いつかれると、甘氏は劉禅とともに置き去りにされてしまう。このときは護衛に付いていた趙雲(ちょううん)の活躍で難を逃れ、幼い劉禅ともども命拾いした。
ところが、それからまもなく甘氏は亡くなり、南郡(なんぐん)に埋葬された。
222年になり、皇思夫人(こうしふじん)と諡(おくりな)されて蜀に移葬されることになったが、その柩(ひつぎ)が着く前に劉備が崩じた(223年4月のこと)。
そのため丞相(じょうしょう)の諸葛亮(しょかつりょう)と太常(たいじょう)の頼恭(らいきょう)が諡号(しごう)を検討。改めて昭烈皇后と諡されたうえ、劉備と合葬された。
管理人「かぶらがわ」より
本伝によると「たびたび劉備は正室を亡くしたため、いつも甘氏が奥向きの諸事を取り仕切っていた」ということです。
乱世の中、やむを得ないところもあるのでしょうが、劉備の妻子はよく置き去りにされています。対呂布(りょふ)では196年と198年の2回。対曹操でも200年に1回(このときは関羽〈かんう〉も一緒)ありました。やはり劉備は甘い男ではないですね。
甘氏は、趙雲の働きで長坂の危機を脱することができましたが、ほどなく亡くなってしまうとは――。劉備張りの波乱の生涯でした。
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