周泰(しゅうたい) ※あざなは幼平(ようへい)

【姓名】 周泰(しゅうたい) 【あざな】 幼平(ようへい)

【原籍】 九江郡(きゅうこうぐん)下蔡県(かさいけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 第055話で初登場。
【演義】 第015回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・周泰伝』あり。

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満身創痍(まんしんそうい)になりながら孫権(そんけん)の命を救う

父母ともに不詳。息子の周邵(しゅうしょう)は跡継ぎで、周承(しゅうしょう)も同じく息子。

194年、孫策(そんさく)が袁術(えんじゅつ)のもとに身を寄せたが、このころ周泰は蔣欽(しょうきん)とともに孫策のそば仕えとなる。そして慎み深い態度をもって付き従い、たびたび戦功を立てた。

196年、孫策が会稽(かいけい)に入ると、周泰は別部司馬(べつぶしば)に任ぜられて兵を授かり、後に許しを得て孫権の配下に移った。

孫策が六県(りくけん)の山越(さんえつ。江南〈こうなん〉に住んでいた異民族)を討伐したとき、孫権は宣城(せんじょう)に駐屯していた。宣城の守備兵は1千に満たなかったが、孫権は油断し、防御のための柵すら整えなかった。

そこへ数千の山越が押し寄せる。孫権が馬に乗ったときには左右に敵の刃(やいば)が迫るというありさまで、みなあわてふためく。

しかし周泰だけは奮闘し、命がけで孫権の身を守る。彼は敵が散りぢりになった後で昏倒(こんとう)したが、全身の12か所に傷を負っていた。

孫策は弟を救ってくれたことに深く感謝し、周泰を春穀県長(しゅんこくけんちょう)に任じた。

その後、周泰は皖(かん)攻めや江夏(こうか)討伐に加わり、帰途で豫章(よしょう)に立ち寄った際、宜春県長(ぎしゅんけんちょう)に転ずる。これまで同様、任地の租税を俸禄として賜った。

203年、周泰は孫権の黄祖(こうそ)討伐で功を立てる。

208年、周泰は周瑜(しゅうゆ)や程普(ていふ)とともに、赤壁(せきへき)で曹操(そうそう)を大破。次いで南郡(なんぐん)に留まった曹仁(そうじん)を攻める。

翌209年、曹仁らが江陵(こうりょう)から撤退した後、孫権軍が南郡を占拠して荊州(けいしゅう)を平定。周泰は岑(しん)に駐屯することになった。

216年、曹操が濡須(じゅしゅ)に進軍してくると、周泰は軍勢をひきいて迎撃にあたり、撃退後は濡須督(じゅしゅとく)として留まり、平虜将軍(へいりょしょうぐん)に任ぜられた。

219年、孫権が劉備(りゅうび)配下の関羽(かんう)を撃破すると、さらに蜀(しょく)の攻略をもくろむ。

周泰は奮威将軍(ふんいしょうぐん)・(名目上の)漢中太守(かんちゅうたいしゅ)に任ぜられ、陵陽侯(りょうようこう)に封ぜられた。

後に黄武(こうぶ)年間(222~229年)に周泰は死去し、息子の周邵が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると、周泰が濡須督を務めていたころ、指揮下にあった朱然(しゅぜん)や徐盛(じょせい)らは命令を聞こうとしなかったそうです。

そのため孫権は濡須塢(じゅしゅう。堡塁〈ほるい〉)まで出向き、部将を集めて盛宴を開きます。

そして孫権自ら酌をして回り、周泰のところへ来ると上着を脱ぐよう言い、彼の傷跡を指さしながら、それぞれの傷にまつわる戦いの様子を語らせました。

さらに翌日、周泰に自分が使っている御蓋(きぬがさ)を授けると、それ以後は徐盛らも周泰の命令に従うようになったのだとか。

周泰は寒門(権勢のない家柄)の出だったというので、孫権が彼への感謝の気持ちを、効果的な演出も交えて示してみせたらしい。これはなかなかうまいやり方ですよね。

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